室戸紀行② DAY1-2 「小松島港の今」
徳島に着いて、走りだした車の下回りからゴツゴツと音がする。
車をとめて点検すると、タイヤにも空気圧にも異常はない。
しかし、このまま走行を続けるのは、不安だ。
幸運なことに、数キロも走らないうちに、NISSAN販売店の看板が。
やったー!である。
事情を説明する。
飛び込みにも関わらず、すぐ点検してもらえた。
パンクだった。ボルトが刺さっていたのだ。
むろん速攻、修理を依頼。
修理代が心配だったが、請求額は1,650円。ほっとする値段に、アリガト!と。
こうして、室戸への旅は続けられることになった。
1 小松島フェリー残影
パンク修理を終えた車は、ゴツゴツ音もしなくなって、快適に南下する。
しばらく行くと(十キロぐらい)、「小松島港(こまつしまこう)」という道標(看板)を見かける。
ここが小松島か?
逡巡もつかの間、すぐに港方面へハンドルをきった。
今回は室戸が目的だけの旅である。気の向くままでよいのだから。
小松島、といえば、私の中では、「フェリー」である。
が、今は、もう小松島港にフェリー航路はないと思う。たぶんね。
それも確かめたかった。
他所の事例の見聞であるが、フェリーや旅客船の航路が廃止された、ある港の、ビフォーアフターを知っている。
その港は、往き来する人と物に溢れ、おおいに繁栄していた。
しかし、海峡大橋の開通により航路廃止に。
やがて港は大きく変容していく。海は静かなのに、変化は激しかった。
さて、小松島の場合はどうなんだろう?
小松島港に着いたど!
ひろいなあ!
[小松島フェリーの歴史]
「小松島フェリー(こまつじまフェリー)は、元々は大阪港から神戸港を経由して小松島港に至る客船航路であった。フェリー航路としては1974年に開設された。
客船航路時代の1970年には大阪万博の観客輸送もあり、200万人を超える輸送者を記録した。
しかし船舶のスピードが遅く、大阪港からは5時間40分ほどを要したため、和歌山駅からから南海電鉄に乗換えできる南海フェリーに客を奪われていった。
その後、高速フェリー投入により、大阪南港との間を3時間20分で結ぶことになり、運賃は南海フェリーよりも有利となった。
しかし、阪神方面を結ぶ他航路の相次ぐ開通、1985年の国鉄小松島線の廃止、大鳴門橋の開通の影響、さらには小松島港のフェリー港としての地位の低下の影響で客足も落ち、1993年に廃止された。」
(ウィキペディアより抜粋)
小松島フェリーの歴史を、ウキペディアさんに教えてもらったが、いまいち理解できない。
他航路の歴史も俯瞰しないと、その詳細がよくわからない。
いずれにしても、日本中が高度経済成長に浮かれた大阪万博時代、200万人を運んだ港であったことは間違いない。
小松島港のフェリーターミナルは、さぞや賑わっていたことだろう。
私の中で、おぼろに記憶に残る小松島フェリーの華やぎは、この時代の残影だと思う。
[小松島港の今]
航路廃止の小松島港そのものは、徳島港と一体で管理運営されている。正式名称は「徳島小松島港」。
管理主体は国。
「徳島小松島港は、徳島県の経済文化の中心地である徳島市を背後地とする徳島港区と、小松島市を背後地とする小松島港区からなる重要港湾である。徳島港区は、首都圏、近畿圏とを結ぶフェリーが就航している他、臨海部に立地する木材関連企業の原料となる林産品(原木)の供給基地となっている。
また、小松島港区は、徳島県における外貿(がいぼう)拠点として、釜山との間を結ぶ国際定期コンテナ航路の就航、背後地に立地する製紙関連産業の原料となる林産品(木材チップ)の供給基地となっている。」
(国土交通省四国地方整備局港湾空港部HPより)
静かなる小松島港の今は、華やぎはないものの、縁の下の力持ちとして日本の外貿を支えていた。
2 お昼ごはん-道の駅「公方の郷 なかがわ」
お昼は、道の駅「公方(くぼう)の郷なかがわ」(阿南市)でお寿司を買った。
沿道に適当な食事処がなかったので。
道の駅のある阿南市は、小松島市の南に隣接し、徳島の大河・那賀川の河口の町。
駅名につけられた「公方」は、室町時代末期から約270年間の足利将軍の末裔が阿波公方として居を構えた(「阿波公方」)ことに由来するという。
サラダ巻
焼ちくわ
、、、、
ポタ電で熱いお茶も飲む。
このポタ電、買ってよかった。
車中泊の友として。
つづく
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