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晩秋の吉野山2 金峯山寺蔵王堂


前回記事は、吉野山の「下千本(しもせんぼん)」界隈散策のリポートでした。

今回記事は、「晩秋の吉野山2 金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂」と題し、「金峯山寺蔵王堂・日本最大秘仏本尊特別ご開帳」参拝及びその界隈のリポートです。


車のダッシュボードに置いたチラシ(大駐車場にて)


今回歩いた(参拝)順番は、蔵王権現の在わします蔵王堂をメインに以下のとおりです。

 1 二王門(仁王門)
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 2 前庭(大護摩供道場、四本桜、村上義光公忠死之所、)
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 3 蔵王堂、本地堂 
※本地堂(本地仏安置)では「墨跡展」開催中でした
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 4 天満宮(威徳天満宮)
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 5 南朝宮跡(ご休憩所、南朝妙法殿、仏舎利宝殿、不動窟)

上=南、下=北 (ネットよりお借りしました)



1 二王門(仁王門)

ここから前回記事のつづきです。

「世界遺産 国宝 金峯山寺二王門 保存修理工事」の覆屋
覆屋をとっぱらうと、こんな感じです(現在はすでに解体されて何もないのですが)
二王門は京都(北)の方角に向いています。南へひたすら歩けば大峯、熊野です
二王門の後ろ(南)が蔵王堂です
二王門の創建年代不明ですが、『太平記』に兵火による焼失(1348)のありさまが書かれているので推して知るべしと(南北朝時代)


二王門の保存修理工事の概要

2018(平成30)     調査工事・耐震診断
2021(令和3)     仮設 素屋根(覆屋)建設
2022~23(令和4-5)   解体工事
202324(令和5-6) 発掘調査      ※今夏8月終了(橿原考古学研究所)
2024(令和6)               耐震補強・設計       ⇐今ココ
2025(令和7)               基礎工事(土台)
2025~27(令和7-9) 組立工事
2027(令和9)              瓦葺工事、仮設 素屋根解体撤去、諸工事
2028(令和10)              竣工予定

本体工事期間  2020(令和2年度)~2028(令和10年度)
事業費     2,000,000,000円←(「0」の数多くてわからんわ!)

説明板には、「1339 仁王像造立(二王門建立か?)」と書いてある
1339年といえば後醍醐天皇崩御された頃だ


二王門の土台部分の発掘調査の結果、礎石には寺院ではほとんど見られない片岩という石が使われていることなどが判明したという。
近くで採れる石を利用したからでしょうか。


いよいよ蔵王堂へ。
二王門からは入れませんので、二王門の東側の道へと迂回します。


二王門は右。門が、いかに急斜面に建立されたかがわかる
尾根筋なので平らな場所を確保するため石積みも多用されたでしょう
二王門の礎石は、たぶんこのような石ではないかと思う
この上が蔵王堂前庭。見えているのは、そこにある愛染堂(左)と観音堂(右)



2 前庭(村上義光公忠死之所、四本桜)


蔵王堂の南側へ回ってきました。

蔵王堂は一段高い台地上にある
金峯山(きんぷせんじ)とは吉野山から山上ヶ岳(大峰)までの連峰の総称だ
金峯山寺本堂・蔵王堂の創建年代も不明とか
(奈良時代から平安時代初めには何らかの寺院ありとも)
境内にある「村上義光忠死之所」の碑
村上義光は、南朝・大塔宮の身代わりとなって壮烈な最期をとげた
大塔宮は、村上義光公腹かき切っている間に高野山へ無事落ちのびたという
(忠死嫌です)


3 蔵王堂、本地堂


蔵王権現さんの拝観は何年ぶりでしょう。

これまでは、拝観料要るしするので、蔵王堂に参拝しても拝観まではしないことがつづいてきましたが、この前kumokichiさんのnote見て、あらためてお目にかかりたいなあと思ったのでした。


蔵王堂はたびたび(5回)焼失しているようです。山上だからひとたび失火すると消火困難だったのでしょう
そのたびごとに再建されたという。「強い信仰心」?
修験道開祖・役行者さんでしょうか? 金峯山寺は金峯山修験本宗総本山ですからね
まだ観光客も多くありません(よかった)
おなじみの景
柱 ぶっといですね。この柱の数は堂内全部で68本あるとか
杉、檜、欅、松などの巨大な柱に圧倒されました


ここから蔵王堂内に入ります。拝観料1600円。

むろん写真撮影できませんので、青の蔵王権現像のポスターを貼っておきます。

中央 釈迦如来の権現 背丈7.28メートル
右  千手観音菩薩の権現 背丈6.15メートル
左  弥勒菩薩の権現   背丈5.92メートル


コワい顔されてますが、慈悲の心に満ちているという


今回、堂内一巡し、近くからじっくり拝観させていただきました。

蔵王権現像のほか、その他の仏像・尊像あるいは寺宝の数々に、あらためてびっくりしました。

実際に吉野山に来られて拝観されることをお勧めします。


堂内土足禁止で、履き物を入れる袋をもらいました。持ち帰っていいとのこと
尾根筋に立地していますが、ここだけ平らな台地になっています
かなり大規模に造成されたのか自然地形だったのか。あるいは両者の組み合わせか


4 天満宮(威徳天満宮)


蔵王堂の境内の一角(南西側)に、「威徳天満宮」があります。


ご祭神は菅原道真公です


威徳天満宮由緒記(要約)
千年の昔。
大峯山中で仮死した僧・日蔵がいた。
その日蔵が冥土でさまよう後醍醐天皇と出会う。
後醍醐天皇は、菅原道真公を太宰府に流した罪によって死後の苦しみを受けているという。
そして、日蔵に向かって「生き返って道真の霊をまつって欲しい」と。



このあと、台地の西側の階段をくだり、「吉野朝宮跡」へ行きました。




5 南朝宮跡(ご休憩所、南朝妙法殿、仏舎利宝殿、不動窟)


かつての南朝(吉野朝廷)・後醍醐天皇の皇居跡で、「行宮」であり「御座所」であった。
元は実城寺というお寺だったという。後醍醐天皇は寺号を改名し金輪王寺とした。

この場所の発掘調査によって皇居跡が確認されたのかどうかを知りませんが、仮に科学的証拠がなくても、南朝の「行宮」あるいは「御座所」が、この吉野にあったことは史実ですから、個人の歴史の楽しみ方としては、現場に立って妄想すればよいと思っています。
事実でなくても今日まで伝えられてきたことは真実で。


「…実城寺という寺でした。…明治を迎えましたが、廃仏の嵐にあって廃寺となってしまいました」
「里へくだれバ 日ハ西の山にいりぬ…」
「吉野朝宮址」の碑
「里帰りの大藤」 はるばる九州・八女市より
「…望郷の念やまぬ吉野にご帰還も叶わぬまま…」
仏舎利宝殿(仏舎利塔)
(曇ってきたか)
仏舎利塔
左=不動窟、右=ご休憩所
(コンニチワ)
光り
幽玄
戻る坂
仰ぐ蔵王堂
空石積み


今回記事は以上です。


次回(終章)は、「晩秋の吉野山3(終章)吉野神宮」をリポートします。

吉野神宮は、明治に入って後醍醐天皇をご祭神として創立された(昭和7年竣工)という。その場所は、吉野山メインルートの入口になります。

しかしながら、新しく車道が開通すると、また観光拠点の蔵王堂からだいぶの距離もあって、今は参拝者も観光客も、そう多くはないようです。

そんな吉野神宮に何があるのでしょう…?


つづく。


2024.11.9(訪れた日2024.11.6)