蜃気楼とリュックサックとあゆの塩焼き
「あつーい……」
「そうね……ジェイ、もう少し離れてくれない?」
「無理だよ、ビビ。もう毛先ほどだって動けない」
「……まあ、気持ちもわかるけどね……暑すぎて、いつか干からびるんじゃないかしら」
「ね、なんとなく、地面がふらふらしてるような気がするし……」
「……あら、でも、なんだか一瞬、ひんやりしたような……?」
「……遠くに、何かが見える気も……?」
「それは……蜃気楼かしら……」
「蜃気楼……あれが……? あの……あゆの塩焼きが……?」
「……蜃気楼は幻覚とは違うわ?」
「あの……あゆの塩焼きを食わせろ……」
「落ち着いて、ジェイ。お母さんが言ってたでしょ? あゆの塩焼きはわたし達には大きすぎる……わ?」
リュックサックのフタを開けると、子猫が2匹、まん丸の瞳をして見上げてきた。
すぐに我に返ったようだったが、優秀なスタッフに捕まり、それぞれ診療台にあっさりと乗せられた。
体温正常。体重も問題なし。
ここは動物病院である。長く犬や猫を診てきた院長だったが、最近はいいものがあるなと、リュックサック型のキャリーケースを見て思う。肩や腰への負担が軽いし、何よりこの猫たちを溺愛している飼い主の子供でも猫たちを運べるのがいい。
ただ、猫たちも順調に成長しているので、さすがに次からは1匹ずつで運んでくださいねと医師がいうと、すでに新しいものを注文済みだと飼い主――猫たちを意気揚々と、でも慎重に運んできた子供の母親――は言った。今日は予約以外の患者がおらず、空いていたために、病院に到着してすぐに診察室に通されたせいだろう。親子そろってうっすらと汗がにじんでいた。
子猫たちは必死の形相でささやかな抵抗を試みていたが、多少のひっかき傷など気にもしないスタッフたちに捕まり、あっさりとワクチンを打たれてくれた。利発そうな子たちに、自然と院長の頬も緩む。
「いい子たちだね」
院長がそう言うと、母親が嬉しそうに、かつ困ったように言った。
「いい子たちなんですが、やんちゃで。とくにジェイはこの間、旦那が釣ってきたあゆを塩焼きにしていたら、手を出そうとしまして」
ワクチンが終わって空腹を思い出したのだろう、リュックに戻されたジェイがにゃあとなくのを、ビビは不機嫌そうに眺めた。