何かのせいにしてばかりで安心して終わり
僕は夜にゲームをすることが多い。よくやるのはオンラインで協力して、敵のチームと戦うゲームだ。ゲーム内でチャット機能があるため、ゲーム中に色々なテキストベースのコミュニケーションが交わされる。いつもいつも愉快なものが流れてくる。例を一部。
**には送信してはいけないワードが伏せられている。ご覧の通り素敵な言葉が並んでいる。勝負に勝てない理由を探し、それを攻めるコミュニケーションしか生まれない。前頭葉の働きは失われ、戦闘モードを切り替えられないままの言葉がばら撒かれる。
まぁそんな人たちはそのまま生きていけばいいと思うのだが、大事なのは基本的に「誰かのせいにする」のが当たり前になっていることだ。そしてその「誰か」には必ずと言っていいほど「自分」は入っていない。
誰かのせいにするのは誰のせいでもないというのが僕の考えなので、誰かのせいにする人に対して恨みを持つようなことは特にない。うざいけど。その場さえやり過ごせば別に気にならないし、後を引かない。
今日はゲームの話をしたいのではない。僕はずっと「教育」に携わる仕事をしているので、教育に纏わる本や動画などはそれなりに見ている。それも含めて、よく世の中では「教育が悪い」みたいな言葉が散見される。気がする。
これは何かを「教育のせい」にして、原因究明で満足している節を感じる。そして多分僕が生まれるよりずーっと昔から「教育が悪い」なんてことは言われてたんだと思う。世の中が悪いとかそういうのも近い意味を感じる。
かといって教育が変わっているのかというと実感はあったりなかったり。ただ、不登校は過去最大になっている反面、教師の労働環境も改善されていない。
教育のせいにするのは自由だけど、教育が変わるのを受け入れる準備は出来てるの?というのが率直な感想。変わらないのは教育のせいなの?ということ。何かのせいにするのは簡単だけど、その原因を解決するのは簡単じゃない。簡単なことで満足するようじゃ何も解決しない。
あれをやった方がいいとか、なんでこれをやらないんだとかを言うのは自由だけど、なんで実行しないのかについてはどこまで考えられているんだろう。それも誰かのせいにしているのだろうか。根本的にはマインドセットの問題も大きいと思う。
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