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母の教え№6  初めての飯炊き

○ 初めての飯炊き

 初めてご飯を炊いたのは、確か小学校の四年生のころだったと思う。長兄が中学校を卒業し、宇和島の床屋に弟子入りしたころから、暮らしも少しずつ楽になり、食事も三度に三度、麦飯が食べられるようになっていた。

 戦後数年たった頃から、丸刈りから長髪に変わる人が増えてきた。床屋も次第に、母の技術だけでは追いつかなくなり、通いの長髪のできる職人さんを雇うことになった。

 職人さんを雇うと母の手が空くので、自分達が作っている三段四畝の畑を手伝ってもらいたいと、姑と小姑が言い出した。母は、これまでに畑仕事などをしたことがなかったが、二人には、そんなことは関係なく強引に申し出てきた。
『畑仕事ぐらい、やる気さえあれば誰にでもできる』というのが二人の言い分だった。

 姑と小姑の、父戦死後の母に対する対応から勘ぐれば、『わざわざ母屋まで、嫌味や小言を言いに来るよりも、毎日、500m位離れた部屋まで来させて、自分達の得意なことでいびる方が楽しみだ!』と考えていたのではないかと思えた。
『今まで気になっていても店の仕事が忙しくて手助けができなかったが、これからは、少しは手伝いができる……』
『祖母ちゃんも六十五歳を過ぎたので、畑仕事は大変だろう?』と母は笑っていた。この時はまだ、母が主体で畑を管理するようになるとは考えていなかったようだった。

 畑は、十月の後半に麦を植え、翌年の五月ごろに麦刈りが終ると、梅雨時に薩摩芋の蔓を植えつけ、十月の始めに芋掘りをして、澱粉工場に供出するというパターンを繰り返していた。どちらも、切り替えの時期が、‟猫の手も借りたい”程の農繁期となった。この時期には、農家の子供達は、学校を休んで手伝うほどで、当然、中一と小四の子供達の応援も姑たちから当てにされていた。

 母は、『将来、農業に従事しないのなら、子供のうちは、近所の子供達と遊ぶ方が大切だ!』と考えていたので、姑たちが、子供達の応援を望んでも、自分の口から❝手伝え❞とは、一切言わなかった。畑仕事に行きだすと飯を炊く時間がないので、何時の間にか次兄が手伝うことになった。
 麦飯でも、〝シャゲ麦〟(精白して押し潰した麦)を使う場合は、米と同時に炊けるが、丸麦の場合は、いったん麦を炊いて開かしてからその上に米を入れて、もう一度炊くことになる。
 そのため母は、朝早く起きて麦を開かしてから畑に行き、昼前にちょっと早めに帰って三食分のご飯を炊いていた。

 ところが姑たちが、『花子は、畑仕事がしんどいから、朝遅く来て昼飯は早めに帰る。これなら猫の方がましだ……』と言っていると隣近所から聞こえてきた。
 部屋は、人家から4~500mも離れた一軒家(当時、電気も水道もなかった)で、地域の隣組にも入ってなかたので、普段は、ほとんど他人が立ち寄らなかった。そうするとその噂は、姑か小姑が隣近所に来て言い触らしたものと思えた。

 そのうち、『姑と小姑が家に来て、母の悪口をいろいろと言っていた』とわざわざ我が家にまで知らせに来る人も出てきた。
『こんな情報をくれる人は、ありがたい反面、こちらの情報も、尾鰭をつけて広めるので、下手な相槌も打てないし油断ができない』と母は洩らしていたが……。

 麦を精白(シャゲ麦)にすれば、飯を炊く時間が短縮されたが、麦を突いて精白する料金が経済的な負担となるので、当時は、ほとんどの家庭が丸麦のまま食べていた。
 母は、この日から、一時間早く起きて、丸麦飯を炊いてから、畑仕事に行くようになった。飯さえ炊いておけば、夕方暗くなって帰宅しても、簡単なおかずを作るだけで、家族が夕食にありつけた。
 しかし、各家庭に冷蔵庫がなかった時代は、どうしても夏場は、麦飯が腐りやすいので、畑仕事から帰って飯炊きをすることになり、特に、農繁期は、毎日遅い夕食が続いた。


 慣れない畑仕事に、炊事・洗濯・掃除と母の毎日は、厳しいものとなって行った。
 これを見かねた、中一の次兄が、麦飯炊きを申し出たが、余りいい返事をしなかった。
 それは以前に長兄が、母に内緒で薩摩芋を煮ていて、指に火傷した時、『跡取り息子に火傷をさせた。男に炊事を手伝わせた……』と姑たちから、暫く小言を言われた経験があったからである。
 その後、私達が、台所をウロウロしていると『男の癖に、鍋や釜の蓋を開けるな!』と言って嫌っていた。

 しかし、母は、『基本的には、❝男子厨房に立ち入らず❞というのはおかしい、男であっても料理くらいできないと駄目だ!』という考え方を持っていたので、結局、姑たちに内緒で、次兄の協力を受け入れることになった。

 それ以来、麦飯炊きは、次兄の仕事に定着した。飯さえ炊けていると、母の帰りが遅い時は、自分達できゅうりや茄子の塩もみをしたり、麦飯に醤油を掛けただけでも空腹を満たすことはできた。そのうちに、次兄の料理は、かぼちゃやジャガ芋を炊いたり、たまねぎを油で炒めたりして、母が帰ったときには、おかずまで出来ていることも多くなった。

 芋掘りの最盛期になると、次兄も畑仕事を手伝うようになり、遊び疲れた私は、空腹を抱えて、母達の帰りを待つことになった。
 私は、母達の帰りが遅い時には、待ちくたびれて居所寝をし、夕食も食べず、そのまま朝まで寝込んでしまうこともあった。

 ある日の夕食のとき、次兄がいきなり、『三郎も畑を手伝わんのなら、飯ぐらいたけや!』と言い出した。母は、『三郎には、火を使うのはまだ危ないから……』と乗り気でなかったが……、次兄は、『開かした麦に、米を一合入れて炊けばいいだけだから簡単だ! 三郎が、飯炊きができるようになると、皆が助かるし、僕達が遅い時には、腹を空かして待たんでも、先に食べたらいい……、僕が教えてやるから…』と強引に進めてきた。最後は母も、『兄ちゃんのように、飯炊きを覚えておくといいかもね……』と了承した。

 私は、『夕食を先に食べても良い……』と言う兄の言葉に引かれて、飯炊きを請負うことにした。一番大切な、火加減を何度も何度も教えてもらった。
 一升の丸麦は、兄が開かしてくれていたので、後は米を一合入れて炊くだけだった。

 その日は、遊びにも行かず、時間の来るのを今か今かと、ドキドキしながら待った。やっと時間が来たので、教えられたように、お茶の間の押入れの大きなブリキ缶から、一合升すりきりの米を鉄釜に入れた。最初は、杉葉に火をつけ、少しずつ大きな薪に切り替えていった。子供の頃は、『火遊びをしてはいけない』と厳しく叱られていたので、おおっぴらに焚き火ができる快感を味わっていた。

 暫くすると、大きな鉄釜の重たい蓋が、ゴトゴトと音をたてて動き出した。慌てて重たい蓋を手前に引くと、向い側の釜の端から、真っ白い湯気が舞い上がった。何度も『蓋は手前に引け』と兄からくどいように言われていた理由が分かった気がした。4~5分強火で炊いてから蓋をし、燃え残りの薪を除いた後、大きな炭火は、すべて消し壷に入れ、火種を少し残した。『最後に、一握りの杉葉をぱっと炊いて出来上がりだ。この最後の一握りの杉葉炊きが、美味しい飯炊きのコツだから、忘れなよ!』と兄が教えてくれたことまで、完全に出来て自己満足していた。


 初めての飯炊きが、よほど気になっていたのか、何時もより早く兄達は帰ってきた。私の顔を見るなり、『飯は炊けたか?』と兄が聞いてきた。「炊けたよ!簡単だったよ……」と得意顔で答えた。
 『教え方が、よっぽど上手だったんよ……』と母がニコニコしながら言ってくれたので、私も兄も嬉しくなっていた。母が手早くおかずを作ってくれて、その日は、何時もより早い夕食となった。
 母は、炊き上がった麦飯を混ぜながら(麦飯は、麦が上の方に浮かび、一合の米が底の方に沈んで炊けるので、よく混ぜ合わせてから食べることが大切!)

『三郎が、飯を炊いてくれるようになると、助かるなぁ……』と母達が感謝してくれた。
『何時もより、少し飯が黒いようだが、米は一合入れたかのう?』と言いながら、皆の茶碗に、飯をついでくれた。
 母は既に、異変の原因が何かを察知していたようだったが、それ以上何も言わなかった。
 何時ものように、「いただきます」と言って、初めて炊いたご飯を噛み締めながら食べ始めたとき……、
『三郎、米は研いだか?』と兄が、すっとんきょうな声を出した。
「米を研ぐって? 一合升で量りこんだだけよ!」と私は平然と答えた。
『しまった! 火加減ばかり教えて、米を研ぐことは、言わなかったか?』   と兄は頭を抱えた。
 二人のやり取りを聞いていた母が、『米を研がんでも、毒にならせなや!』と笑いながら言ったきり、二人とも何も言わなくなった。
 後で良く聞いてみると、兄のご飯に小さな藁屑が入っていたそうだ。この頃の米は、藁で作った俵に入っていたので、藁屑が入っていることが多かった。

 私の初めての飯炊きは、このような失敗から始まったが、二度と米を研ぎ忘れることはなかった。また、この時を機会に、いろいろのおかず作りにも挑戦し、母達の手助けをする喜びも知ることができた。

 今まで、米櫃の中身には、全く関心がなかった私だが、飯炊きをするようになってから、嫌でも毎日ブリキ缶の中を気にするようになった。
 米が減って来るとだんだん心細くなり、そのことを兄にこっそり耳打ちした。
『お前は、そんなこと気にせんでもええ! 米がなければ、麦だけ炊いて食べたらいい!』
 と兄は、きっぱりと言った。

 米櫃の米が少なくなり、一合升に拾い集めるようになると、必ず翌日には、十倍くらいに増えていた。「どこかに、白米の出る、❝打出の小槌❞でも隠してあるのかな?」と子供心に不思議に思っていた。

 このことは、後日、それとはなしに、母に聞いたことがある……。
……すると母は、『嫁入りの時に持ってきた着物が、米に変わるのよ!』とケタケタと大声で笑っていた。私は、「どうして着物が米に?」と一瞬、不思議に思ったが、それ以上深くは聞かなかった。
 私が高校生になって、何かの書物に出会ったとき、その理由を初めて理解することができた。

 子供のころに、飯炊きを覚えたお陰で、これまでに四年半の単身赴任も経験したが、時間がある時は、自分の好きなものを料理して食べる方が安上がるので、ほとんど外食することもなく過ごすができた。

 ――この時代は、大家族が多く、子供が6~7人もいる家庭がそこら中に一杯あった。隣の柴田さんの家庭は、7男1女の8人の子供がおり、我が家と同じく、毎回、一升の丸麦に一合の米を入れた飯を三度に三度、炊いているということであった。
 しかし、子供達は、最近、暖かい麦飯を食べたことがないと言っていた。私は、不思議でならなかったのでこのことを母に話した。母も不思議に思ったのか、このことを直接、柴田さんの奥さんに聞いたそうだ。
 ……そうすると…、
『毎回、温かい飯を食わせたら大事よ! 一人が一杯ずつ余分に食べたら、十杯分余計にいる……』『三度に三度、麦飯は炊くが、それは次回の分で、お櫃に取って、冷やしてから食べさすのよ』と言われたとか……。


『麦飯は、美味しくないが、うちらはまだいい方よ! 三度に一度は、暖かい麦飯が食べられて……』と母は笑っていた―― 

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