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母の教え№4 犬 死
○ 犬 死
小学校の三年生ごろ、村役場の世話で一泊二日の遺族会が開催された。場所は、山の中のお寺で、戦争遺族の夫人や子供達が四十名程度参加した。
今回は、全ての費用を役場が持ち、滅多に無い機会だったので、母が仕事で参加出来なかったが、六年生の次兄が、私の面倒は見るということで二人だけで参加した。
昼過ぎごろ、それぞれの町村役場の方の付き添いで、郡部の各地から次々と参加者が集まってきた。
子供達は、夕食まで歌やゲームで楽しい一時を過ごした。夕食後は、戦争未亡人の話し合いがあり、子供達は自由参加だったが、特に、することも無かったので兄と二人で参加した。
私は、話の内容がよく理解できなかったが、とにかく、戦争は嫌だということに始終していたように記憶している。
中でも、母と同じ年代の人々が、『私の夫の戦死は、無駄だった』と泣きながら話し、出席者のほとんどの人が異口同音に『夫の死は、犬死だった』と言ったのが印象的だった。
当時の私は、『犬死』という言葉の意味が良く分からなかったが、子供心に父の戦死がつまらないものになってしまったように思えてきた。
日頃から、私は「僕の父は、名誉の戦死」と答え、周りの人々も敬ってくれている雰囲気を感じていた。
『名誉の戦死』の意味が良く分からなくても、少し誇らしく思っていたが、あれは何だったのだろうと不安に思えてきた。
これまで、父のいない事を寂しいと思ったこともないし、恥ずかしいと感じたこともなかったが、それは間違いだったのだろうか。
『犬死』とは何か、兄に聞くのも悪いような気がして、分からないまま、もやもやした気分で一泊旅行は終了した。
帰った晩、何時ものように二人で母に報告したが、ほとんど兄が説明した。さすが六年生だと感心しながら兄の話を聞いていたが、とうとう『犬死』という言葉は出てこなかった。やっぱり『犬死』という言葉は、使ってはいけないのだと自分なりに理解したつもりだが、何かすっきりしないものが残ってしまった。
戦争未亡人が集まって「今度の戦争は、無駄だった。再び戦争をしてはいけない。』『自分の子供は、二度と戦争には行かせない』と涙ながらに話したことなど会合の内容を詳しく兄が説明した。
ただ、母は、『うん、うん……』と言って何も言わずに聴いていたが、少し不機嫌になっていくのを感じとった。
私が、父の戦死がつまらないものになったのと同じように、母も感じたのかなと子供心に理解した。
私は、いきなり、「今度、戦争があったら、僕たちを戦争に行かせるかな」と母に聞いてみた。
昨日、集まった戦争未亡人と同じように「自分の子供は、二度と戦争には行かせない」と言う答えを期待した質問だったが、母の答えは全く違っていた。
「母ちゃんも戦争は嫌いだ。でも、お国の為の戦争なら、三人とも喜んで行かせるぜ」ときっぱりと言い切った。
母は、なお、「敵が攻めてきた時、若い者が頑張らなかったら、日本の国は、一体誰が守るのよ!」と言ったきり何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた間に、私は、やっぱり父は悪い人から皆を守るために戦争に行き、仕方なく死んでしまったのだ。お国のために頑張った父は、誇りに思ってもいいのだと母の自信に満ちた答え振りに確信をもった。
兄も何も言わなかったが、私には、母の答えに満足したように感じられた。
その他、いろいろの話がでたが、とうとう『犬死』という言葉は、誰からもでなかった。
この時の母の言葉は、その時の母の表情と共に今でもはっきりと覚えており、その後の私の人生にも大きく影響してきたように思える。
これまで母は、貧乏のどん底にあった時も、財産持ちの親戚から次兄の養子の話が有ったが、「どんなに貧乏しても、子供は絶対に手放さん」と言って頑張ってきた。
その母が、「お国の為の戦争なら、三人とも喜んで行かせるぜ!」と言い切った裏には、国のため、みんなのためには、多少の犠牲も払わねばならないということと、父の戦死に不安を抱いて帰った子供達の気持ちを察しての発言ではなかったろうか?
それからも、父のいない事を寂しいと感じたり、恥ずかしいと思うことのなかったのも、この時の母の教えのお陰だと信じている。
その後、成人して就職した郵便局の労働組合等で、安保反対・成田空港反対と組合員が騒いだ時も、無条件で国の施策に反対する同僚達に一線引いて、冷静に考える余裕ができたのも、『お国の為に……』と言った母の言葉を思い出すからである。