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母の教え№21  嫁と姑たちの戦い(3)  3 嫁いびり

 当時は、嫁と姑の確執は、何処の家庭でも日常茶飯事の出来事だったが、特に我が家は、おまけの小姑がついていたので、よその家庭よりもより複雑だった。姑たちと別居だといっても、しょっちゅう小姑が家に出入りして、箸の上げ下ろしまで、くどくどと文句をつけていたが、父は、床屋の店の方に常時いたので、裏方のことについて、姑達がどう言った、こう言ったといちいち報告もできず、母は、困ってしまったそうだ。
 『よくまあ、こんなことまで思いつくものよ』
と感心することもしばしばであった。
 また、一軒家のカンテラ(当時、部屋には電気が来ていなかった)の下で、『明日は、嫁の何について注意しようか』と二人で楽しみながら相談している姿が浮かんできた。
 母は、当初は、注意されたことは二度と文句を言われないようにしようと、メモに書き残して、言われるままに直してきた。ところがある時、2~3週間前に注意されて直したことと、全く反対のことに文句をつけられた。
 おかしいと思って、メモをめくって確認するとこれと同じ内容のことが、次から次へとでてきた。
 姑は、明治15日年生まれで、読み書きが全くできず、小姑も明治38年生まれで、殆ど学校にもいかなかったのか、片仮名だけが少し読める程度であり、何かを根拠にして注意しているものではなく、その場限りの思いつきで言っていることが分かってきた。
 よくよく聞いていると、二人共、『嫁には、何か文句を言わないといけないものだ』と思い込んでいるのではないかと思える節が、何かにつけ見え隠れしていた。

 そこで、母は、それ以降7件注意されても、そのうちの2件くらいを直して、その後の様子を見て対処することにしたら、随分、気分が楽になったそうだ。
 そのうちに、隣近所の人たちも、姑達が無理難題を言ってきていることが、少しずつ理解してもらって……、
 『よくまあ、我慢できるものよ。よく喧嘩もせずに仕えていることよ』と同情してもらうことが多くなった。
 『〝ならぬ堪忍するが堪忍〟と実父が教えてくれた!』と母は、常に言っていた。また、『喧嘩は、同じレベルの者がするんよ! 母ちゃんは、部屋の人らとレベルが違うけん、喧嘩にならん!』と笑いながら話してくれた。
 『両方が同じ線上で突き当たるから、喧嘩になるのよ。賢いほうが、少し我慢して避けたり、より上の方から、見下ろしておれば、喧嘩になりようがない……』と何時も笑っていた。
 私たちが兄弟喧嘩をしても、『昔から、“喧嘩両成敗”と言って、両方共に悪いところがあるから喧嘩になるんよ!』と言って、年齢に関係なく、両方が同じように叱られた。
 昭和18年2月に、父が戦病死した後も、姑達の〝嫁いびり〟は、今まで以上に続いたが、“以心伝心”という信念と “誰のためでもない、自分のために仕えるのだ” という思いで、母は、一生を貫いてきた。
 『人生は、芝居と同じよ! 芝居は、一時間の間に、悪人が善人に変わるが、人生では、何十年もかかる。どんな人でも、❞誠心誠意❞ 尽くしてさえおれば、薄紙を剥がすように変わるものだ』と実践して教えてくれた。

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