母の教え№26 嫁と姑たちの戦い(8) 8 盲腸の手術
昭和35年4月、姑が75歳の時、盲腸で入院し、手術することになった。
姑は、これまで全く大病をしたことがなかったので、入院しなければならないと言うだけで、不安になっているところに、お腹を切ると聞いて、大騒動になってしまった。
しかも、『80歳近くにもなって、盲腸になる人は少ないよ……』と地元の医者に言われ、より一層、ショックを受けたようだった。
母が盲腸を患って一番苦労した時期に、姑達がそんなに真剣に看病していなかったことが、心の隅に残っていたのか、たくさん病気がある中で、この歳になって盲腸になるとは、何かの因縁があるのではないかとまで疑って、二人共に大変に恐れたそうだ。
母が、『盲腸は、拗らしさえしなければ、大丈夫だから……』となだめても、なかなか信用せず、最後まで手術を拒んだらしい。
しまいには、嫁いでいる実の娘二人を呼び出して説得してもらい、最後は、『手術せんと死んでしまうぞ!』と医者に脅してもらって、仕方なく町立病院に入院して手術することになった。
手術の日は、嫁いでいる二人の実の娘と長兄が付き添い、二日目からは、母と小姑(同居の実の娘)が交替で看病することになった。
母は、中風で長年寝ていた実母の看病も経験していたし、自分自身が何度も盲腸で入院したことがあるので、看病には慣れており、病人の気持ちも理解していた。
ところが小姑は、これまでに、入院するような大きな病気をしたことがなかったので、病人の気持ちが分かるはずもなく、また、実の親子の間柄でもあったので、初めての大病で我儘を言う実母に我慢ができず、口喧嘩をしてしまうこともあり、おのずと看病にも大きな差が出てきた。
『ちったあ(一寸は)我慢しないや! わしも疲れて眠たいんじゃん!』と夜中に、喉が渇いたり、小便等で付添い人を起こすと、愚痴をこぼしながら世話をするので、実の娘の付き添いを祖母は嫌がった。
母の場合は、早め早めにこちらから、喉の渇きや小便等の状況を尋ねたり、夜中に病人が寝返りをうっただけで、動きを察知して声をかけるなど、〝至れり尽くせり〟の看病をしたので……、
『花子は、いつ寝よるんぞ! 身体は大丈夫か?』と逆に姑が母の身体を気遣うほど、入院中は、心の底から誠心誠意看病した。
また、付添い人は、病人の体温やお通じの状況を詳しく記録したり、お見舞いに来てくれた人の名前を控えることが必要だったが、片仮名しか書けない小姑には、苦痛で弱点になっていた。
そこで母は、『この機会に、平仮名や簡単な漢字を覚えないか?』と小姑に進めると、思いのほか喜んで応じてきた。
母は、すぐさまノートと鉛筆を買い揃えて小姑に渡し、片仮名を基本に平仮名、日常使用する漢字から、ローマ字まで教えることにした。
病院は、その時から日曜学校に変わり、嫁と小姑の間柄が先生と生徒に変わったそうだ。
祖母の入院は、老人の盲腸の手術だったので、二週間もかかったが、この二週間は、母にとっては大きな存在になったと後々話してくれた。
祖母の退院後は、何事も「花子、花子」と母を頼りにするようになり、今までのように細かいことまで文句を言うことが少なくなった。また、小姑の方も、「花子さん、花子さん」と相談してくれることが多くなり、今まで以上に理解しあうことが出来るようになった。
また、母は、この頃から、遺族会の世話や母子福祉会の役員をするようになり、地域のいろいろの会合にも、小姑を無理に誘って参加するようにしたが……。母が、地域の皆から、『花子さん、花子さん……』と言って、慕われている姿を知って、『花子さんは、凄い!』と母の値打ちが上がり、より一層信頼関係が増して行ったとか。
分からない文字や理解できないことがあると、『花子に聞いて来いや!』『花子さんなら、知っているだろう』と二人揃って、尋ねて来ることもあったりして、何時しか、嫁と姑・小姑の関係が、先生と生徒になり、何でも気楽に冗談も言える間柄に変わって行った。
その後も、時々は、小言や文句を言うことがあっても、これまでのように、険のある言い方は少なくなり、受ける方も、笑って済ませることが多くなり、一般的な家族の会話が気楽に出来るようになったそうだ。
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