手に余る課題よりも
「世界の存続のために何ができるか」なんてことは、結局個人レベルでできることなど、ほぼないのかもしれない。
個人が何かしたところで、戦争や紛争の類が止まるはずもないし、偏見や差別をどうすることもできない。
食糧や資源の問題なんかも、結局は企業や国家レベルでしか問題解決につながるようなことはできないだろうし、飢餓や貧困なんかも、僕らが何かを企んだところで、全くもってどうしようもない。
「いや待てよ、今ならネットの力で何かできるのではないか?」と思われる方もいるだろうけど、それが実現できるのは、ほんの、ほんの、ほんの一握りで、インターネットなんてものは、客観的に見てしまえば、憎悪を憎悪で煮込むような蠱毒の壺のようなものに近い。
酷い表現だと自覚しているが、僕はインターネットというものに対して、それくらい絶望していた時期がある。
そして、その絶望の原因が、僕自身にもあったことは自覚しているし、反省もしている。
人と人の断絶の原因は、誰の心にもある認識の歪みのようなものによる、無理解に由来するものだと思う。
誰の心にもあるもの故に、誰も気がつかないことが多く、誰も気がつかなかったが故に、結果的にとても大きな影響を与える事件になってしまうことがある。
不安、不審、敵愾心……。
心にかかっている、様々なフィルターのせいもあって、目の前が正しく見えていないことは、僕らには多々あることだ。その影響の最たるものが、あからさまな偏見であったり、謂れのない差別なのかもしれない。
もしそうだとするなら、人と人がより良い未来を迎えるためにも、そうしたフィルターはいち早く取り去るべきだろう。
ただ、人の中には、利己的な目的のために、そのフィルターを使いたがる人が多くいるのも事実で、対立を起こして自らが望む関係性を構築するために、わざわざ不愉快な諍いを起こしているわけだ。
世の中を見渡せば、大物小物に関わらず、そうした対立を煽る存在は至る所に存在している。
そうした存在の言動に気を払い、内容を鑑み、その影響に巻き込まれないように気をつけることは、人の原罪とも言えるその習性に囚われることなく生きるための手段になり得ると思う。
人と人がつながって、より良い未来を目指すためにも、世界規模の手に余る課題よりも、もっと身近の、もっと根源的な問題を改善することの方が、逆な近道かもしれないなと、そんなことを思った。
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