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赤羽雄二さん『自己満足でない徹底的に聞く技術』で書かれている
アクティブリスニングを実践中の畑中です。

先日、Clubhouseで、赤羽さんとお話させていただく機会がありました。Clubhouseって、こんな方とも、直接お話ができてしまうから、素敵すぎます。まだ、Clubhouseを利用したことがなければ、是非、お試しくださいね。

私のnoteブログをご覧になった赤羽さんが、

話を聞くための『メタ認知』ができれば、
 より多くの人にアクティブリスニングを広げていくことができる」

とアドバイスをくださいました。

赤羽さんからは、いつも新しい視点をいただきます。

「「子どもの話を聞くようにしたら、こんな話をしてくれた」という体験をブログで書くことはできるが、それを何個も書き続けられるのはなぜか?日常のたわいもない会話の切り取り方、観察眼、洞察力が、ブログから伝わってくる」とおっしゃってくださいました。

嬉しい反面、そんな風にこのnoteブログをご覧になっていることに、驚きました。家族にその話をしたら、みんな、私のことを好き放題、言っていました。

こんな風に、「私」という人を見たときに、どこを切り取るか、どう感じるかは色々です。そうやって他人の話を聞くと多くの発見があるので、単純に楽しいですよね。

赤羽さんが、いくつかご質問くださり、深堀りできたことで、気づいたこともありました。

「メタ認知」には程遠いですが、「メタ認知」探しのヒントになるかも知れませんので、今回は、それらを書き留めておきます。

光があれば影がある

1月は、成人式がありましたね。
私は、今年の成人の日に東京駅で、成人を迎えた晴れ着姿の女性やその家族を何人も見かけました。とても綺麗で、幸せそうで、目を奪われました。

あなたなら、「晴れ着姿」の方を見たときに、どんなことを思いますか?

2023年1月9日@東京駅

私は、数年後の我が子の「晴れ着姿」を想像し、楽しみにもなり、成人式に参加していない人たちやその家族のことを想像しました。

というのも、約25年前の一つ年上の兄の成人式の日の記憶が、よみがえったからです。

その当時、兄は、メンタルヘルスに不調を来していました。少し調子が良かったこともあり、小学生時代からの友人が家に迎えに来てくれ、成人式に出かけて行きました。それを母がやけに喜んでいたのを、思い出したからです。

「晴れ着姿」を見たとき、
あなたは、私とは違うことを想像しますよね?

私は、「あなたには、何が見え、何を考え、どう感じたのか?」が、単純に興味があります。

私は、光と影のように、何かを見たときに、
こっちから見たらだけど、
こっちから見たらみたいなことは、自然と考えています。
これは、赤羽さんとお話させていただく中で、気づいたことです。

あまりに当たり前すぎて、こんなことを書いて何か意味があるのかな?と思うくらい、普通にしています。

だから、同じものを見たときの他人の思考や感情を聞けると、
私の見ていた物事が、より立体的に見えてくる気がして、単純に楽しいのです。

「ありがとう」の光と影

例えば、「ありがとう」という感謝の言葉がありますよね。

「ありがとう」や感謝することのメリットは、山のように聞いたことがあると思います。なので、あなたも、「ありがとう」を口にすることを習慣にされているかも知れません。

私の誕生日は3月9日です。そんなこともあり、「サンキュー」には勝手にシンパシーを感じており、「ありがとう」は大好きな言葉です。すると、「ありがとう」に対して、別のとらえ方をする人の言動が、アンテナにひっかかります

おばあちゃんの「ありがとう」に対する反応

例えばこんな感じです。

数年前、長男が小学3年生くらいのときだったでしょうか。
実家でおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に夕食を食べていたときのことです。

長男がおばあちゃんに、
「おばあちゃん、ご飯おわかり~!」とか、
「あ、お醤油、とって」とか、ぽろぽろと頼みごとをするたびに、長男が「ありがとう」と言っていました。

すると、おばあちゃんが、

「ありがとうって、いちいち言わないでもいいのに。
 おばあちゃんなんだから」

と言ったのです。

「ありがとう」と聞いて、他人行儀と感じたのか、
わざわざ、そんなこと言わないでたっぷり甘えればいいのよ、
の意図なのかはわかりませんが、この言葉が、私のアンテナに、ひっかかりました。

そんなおばあちゃん(私にとっての母)は、
私が小さい時から、よく「ありがとう」を口にする人でした。
でも、
「お礼はしっかり言いなさい」とか、しつけられた記憶はありません。

こんなおばあちゃんの言葉から、
「「ありがとう」を1日〇回言うと、幸せが寄ってきます」」という類の言葉への違和感を覚える根源に気づけたりします。

障がい者の「ありがとう」に対する反応

もう何年も前になりますが、
NHKの障がい者バラエティー番組「バリバラ」を見ていたときです。

車いすに乗っている方が、
「『ありがとう』免除の日がほしい」
とおっしゃっていました。

車椅子で出かけると他人に助けてもらうことが1日に何百回もあって、そのたびに、「ありがとう」と言っている。言わないと、Twitterで「車いすの人に〇〇したのに、お礼もなかった」という悪口を言われる時代だから、「ありがとう」は言っている。あなたにとっては、1回の「ありがとう」だけど、私にとっては「何百回目のありがとう」。だから、「『ありがとう』免除の日がほしい」と。

「バリバラ」のTV番組で聞いた話とおばあちゃんの話が、結びついて、

ほんとうに優しい世の中は、「ありがとう」なんて言葉がなくても、ちょうどよく回っている世の中なのではないか?

とか、

「ありがとう」は世の中の潤滑油ではあるけど、強要すると、苦しむ人がいる

とか、

どんなにいい言葉でも、使い方によっては、デメリットもあるよね

とか、気づくことができます。

そして、

他にもいいと言われている言葉で、デメリットってなんだろう?

とか、

他人から「ありがとう」と言われたときに、
どんな気持ちで、この人は「ありがとう」と言っているんだろう?

とか、考えるきっかけになったりします。

ちょっと大きな話

バタフライ・エフェクト効果のように、
アクティブリスニングは、誰でもできる世界平和につながる行動だと思っています。

正解・不正解がないものに対して、
自分の考えも、他人の考えも、否定も評価もアドバイスもしないで聞くのですから、揉めようがないのです。

今、読んでいる『ニュー・アース』(著:エックハルト・トール)に、こんな一説がありました。

どんな概念も数式も、無限を説明することはできない。どんな思考も、全体の広大さを把握することはできない。現実とはひとつの全体だが、思考はそれを断片化する。そこから、たとえば個別の物があり出来事があるとか、これがあれの原因だという基本的な誤解が生じる。すべての視点はその性格上、限界を意味する。つきつめれば、それは真実ではない。

『ニュー・アース』(著:エックハルト・トール)

私の解釈はあくまで、私の解釈であることに、人の話を「聞く」ことで気づけます。すると、いかに自分が物事が見えておらず、知らないことばかりだったのかに気づけます。

知らないことに気づき、知る喜びを「聞く」ことで、味わうことができます。

これは、何に見えますか?


私には、電線に見えます。

これは、何に見えますか?

5歳長女は、
「ねぇ、お母さん、カモメが飛んでるよ~」って教えてくれました。

それも、彼女の真実です。
「聞く」ことで、自分とは違う別の世界を、一緒に味わうこともできます。

自分の身近にいる人の話をぜひ、聞いてみてください。
楽しいですよ!

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