相手の数だけ衝突がある|ドラマ『恋せぬふたり』感想
2022年に放送されたドラマ『恋せぬふたり』が、2024年に再放送された。
恋愛するのが当たり前とされる現代日本で透明化され、いないものとして扱われてしまう恋愛しない人たちを主人公にしたドラマだ。
主人公は、兒玉咲子と高橋羽。
2人ともアロマンティック・アセクシュアルを自認している。
アロマンティックとは、誰にも恋愛的に惹かれないこと。
いわゆる「恋」をしないということだ。
「アロマ」「Aロマ」「Aro」と呼ぶこともある。
アセクシュアル(アセクシャル)とは、誰にも性的に惹かれないこと。
「性愛」を抱かないと言い換えることもできる。
「アセク」「Aセク」「Ace(エース)」と呼ぶこともある。
そして、恋愛的にも性的にも、誰にも惹かれないことを、アロマンティック・アセクシュアル(アセクシャル)という。
ドラマ内では「アロマアセク」という略称がよく使われている。
『恋せぬふたり』では、アロマアセクの咲子と高橋さんが出会うところから始まり、ひょんなことから恋愛感情抜きの家族になろうとする。
周囲からなかなか理解を得られない中でも、2人は自分たちなりの家族のカタチを模索していく。
この作品の主軸は、「恋愛感情も性的感情も抱かない2人が、どのように家族となっていくか」だろう。
ただ、個人的には、ドラマ内で様々な価値観の衝突が描かれていることに注目したい。
現代の日本社会では、「恋愛するのが当たり前」「恋をしない人はいない」などの価値観が当然とされ、疑われることがほとんどない。
ドラマ内の高橋さんの言葉を借りるならば「恋愛至上主義」である。
そしてそれは、恋愛的にも性的にも、誰にも惹かれることのないアロマアセクの咲子と高橋さんにはない価値観だ。
だから、価値観の有無により、ドラマ内では数々の衝突が起こる。
わかりやすいところで言えば、家族との衝突だ。
6話にて咲子の妹みのりとの衝突も描かれているが、特に咲子と母さくらとの衝突はわかりやすい。
恋愛結婚をして子どもを産むことを咲子に望んでいた母さくらは、普段から娘の咲子にそれを勧める言動をしていた。
2話目で、限界を迎えてしまった咲子からアロマアセクであることをカミングアウトされ、恋愛も結婚もできないのだと言われると、母さくらは「わからない」「理解できない」と泣き崩れた。
高橋さんは「理解する必要はない」と呟くが、その後も互いに以前よりよそよそしく接する様子が描かれている。
そもそもなぜ母さくらは恋愛結婚と子どもを咲子に望んでいたのかというと、最終話にて「幸せになってほしい」という思いが裏にあったことが本人の口から明かされる。
ただ、恋愛をすれば幸せになれるという考えは、恋愛至上主義に基づいたものであり、だからこそ咲子とは相容れない考えだ。
たとえ「幸せになってほしい」の言い換えだったとしても、咲子からすればそれは価値観の押し付けでしかない。
だから、最終話で「恋愛しなくてもいい」という言葉と共に、「咲子に幸せになってほしい」というストレートな一言を母さくらの口から聞くことができた咲子は嬉しかっただろうと思う。
また、ドラマのあちこちに細かくちりばめられた恋愛至上主義との衝突でいうと、家族以外の周囲の人々との衝突があるだろう。
こちらの衝突は、咲子と母さくらの衝突ほどわかりやすくはない。
たとえば、咲子の会社には、やたらと男女を恋愛の枠にあてはめたがる上司がいる。
1話目の冒頭の「付き合ってるのか?」や「恋愛経験が仕事を豊かにする」などの発言は、強烈かつ悪い意味で印象的だ。
咲子は強く反論しないまでにも首をかしげていたし、「恋愛しない人はいない」という言葉に高橋さんも思わず苦言を呈していた。
1話目以降にも、咲子の元恋人である松岡一(カズくん)と咲子の仲を揶揄うシーンがあるが、カズくんとの会話でだいぶ気分を害していた咲子に怒鳴られていた。
このドラマの中で、火に油を注いだシーンとしてはナンバーワンなんじゃないだろうか。
とはいえ、最終話ではその上司が、咲子とカズくんの仲を邪推した同僚社員をたしなめるところも見られた。
なぜその発言が悪いのかまで理解しているのかどうかはわからないが、してはいけない発言だということは少なくとも学んだのだろうと思う。
アロマアセクの2人に恋愛至上主義を押し付けてくる人たちは、もちろん他にもいる。
カズくんを庇って大怪我をした高橋さんが仕事を休んだとき、家に訪問してきたスーパーまるまるの同僚2人なんかもそうだろう。
同居している咲子と高橋さんを恋人同士だと疑っておらず、咲子のことを高橋さんの相手として値踏みして嫌味も言う。
差し入れがありがたいと咲子は言っていたが、その他の部分ではなかなか失礼だ。
3話で高橋さんも言っていたが、好意があったら何をしても許されるわけではない。
そして、価値観が衝突した相手として欠かしてはいけないのは、咲子の元恋人で同僚のカズくんだろう。
咲子と母さくらの場合は言い合いで済んでいるが、こちらは大怪我にまで発展している。
3話目で、咲子が高橋さんと住んでいることを知ったカズくんは2人をつけ回し(他に言い方が思いつきませんでしたごめんなさい)、高橋さんの家の前で口論になる。
挙げ句の果てに高橋さんと戦おうとし始め、階段から落ちそうになったカズくんを庇って高橋さんは転落。
4話目では、腰を打って腕を骨折してしまった高橋さん、そんな高橋さんを世話をするカズくん、咲子の3人同居が突如始まる。
始めこそ、咲子と高橋さんのことをカップルにしか見えないと何度も言っていたカズくんだったが、徐々に2人に対して理解を示していく。
きっとカズくんは、素直に反省できる良い人なんだろう。
ときどき言葉があまりに直球すぎて失礼なのと、恋愛が絡むと活動休止中とか言いだしてポンコツになるのは玉に瑕だが。
咲子と高橋さんのことをカップルにしか見えないと繰り返していたのも、アロマアセクを理解することができなかったために、見た目から2人の関係性を判断してしまっただけなのだと思う。
「人を見た目で判断してはいけない」とはよく言うが、人と人との関係性もまた、見た目で判断してはいけないのである。
ただ、最初こそ2人の関係性を見た目だけで見ていたカズくんだったが、咲子と高橋さんの感覚や気持ちを正確に理解しだしてからは、カップルという言葉がカズくんの口から出ることもなくなった。
それだけではなく、咲子のことが知りたい、咲子のことを知るには他に何を知ればいいかと高橋さんを頼り、わからないなりにアロマアセクを理解しようと努力する。
これはなかなかできることではないと思う。
体験しようがない感覚を理解するというのは難しい。
それでも、咲子のことが大切だからと努力するカズくんは眩しい。
2人がよりを戻すことはなかったし、これからも友人の関係が変わることはないだろうが、お互いにきちんと向き合ったからこそ出せた結論だったと思う。
また、カズくんと同様に恋愛に関連した衝突といえば、ドラマ内では他にも、高橋さんの元恋人である猪塚遥と高橋さんや、門脇千鶴と咲子とのすれ違いも丁寧に描かれている。
遥さんとのことについては、高橋さんの口から直接語られることはなかったが、遥さん自信の言葉と高橋さんの回想によって明かされる。
リビングで当時のことを思い出している高橋さんの指は、ソファの背もたれに深く食い込んでいた。
他者に触れるということへの嫌悪感や苦手意識だけではなく、結果的に遥さんを拒絶して傷つけてしまったことに対する罪悪感も、背もたれの形を歪ませたのだと思う。
高橋さんと遥さんのすれ違いも切ないが、咲子と千鶴の関係性もまた切ない。
1話目で、咲子と千鶴はルームシェアの約束をしていた。
2人で物件を探し、恐らく入居確定までいっていたのではないかと思う。
ルームシェアする予定の物件を「わたしたちの城」と呼び、千鶴との暮らしを心底楽しみにしていた咲子だったが、千鶴に「元彼とよりを戻す」と言われ、ルームシェアを解消することになってしまう。
しかし、千鶴の言った「元彼とよりを戻す」という解消理由は嘘だったことが、5話目で発覚する。
嘘の裏にあったのは、千鶴から咲子への恋心だった。
でも、咲子にその気がないことをわかっていた千鶴は、咲子から離れるために嘘をついて姿を消したのだった。
「元彼とよりを戻す」という言葉を聞いて戸惑う咲子に千鶴は「仕方ないじゃん」「だって好きなんだもん」と言ったが、あれはある意味咲子への告白でもあったのだろう。
去り際に放った「運命の人に出会えるといいね」という言葉にも「咲子が誰かと出会って、幸せになって、それで咲子のこと諦められたらいいな」という思いがあったんじゃないだろうか。
ただ、「運命の人」「誰かと出会って、幸せに」というのも、恋愛至上主義に基づく考えであることに違いはない。
咲子を想った千鶴の言葉は、アロマアセクの咲子を確かに傷つけたのだ。
たとえ、千鶴本人にその気がなかったとしても。
咲子に恋した千鶴と、誰にも恋をしない咲子。
いつか、気持ちに区切りのついた千鶴と、変わらず千鶴のことが好きな咲子の2人が、心の底から笑い合うことができる日が来ることを願わずにはいられない。
家族。
上司。同僚。
元恋人。
友達。
これまでに挙げたのは、そんな周囲にいるアロマアセクではない人々との価値観の衝突だったが、ドラマ内で描かれている衝突はこれだけではない。
咲子と高橋さんのアロマアセク同士での価値観の衝突もまた描かれている。
考えてみれば、2人が衝突するのも当然のことだ。
アロマアセクという共通点があるとはいえ、咲子も高橋さんも別の人間なのだから。
相手の数だけ衝突も生じうるというだけの話である。
人を喜ばせたくて企画の仕事をしていて、エネルギッシュで明るく外向的な咲子。
野菜に関わる仕事がしたくてスーパーの野菜売り場で働いている、穏やかで内向的な高橋さん。
仕事と性格という面だけを見ても、こんなに違う。
当たり前だが、育ってきた環境も違うので、家族に対するスタンスもかなり違う。
咲子は、家族でにぎやかに過ごすのが好きで、毎年みんなで温泉旅行に行くほどの仲良し家族で育ってきた。
一方の高橋さんは両親に捨てられ、高橋さん本人も両親を捨てた。恐らく、お祖母さんと2人で静かに長年暮らしてきたのだろう。
だから、咲子は高橋さんと暮らし始めてすぐのときに慣れなくて「静かすぎて気まずい」と感じたし、高橋さんは咲子から家族のことを相談されたときに自分の経験に基づく考えから「親がどうなろうと知ったこっちゃありません」と吐き捨てた。
アロマアセクの2人と世間との間に立ち塞がっていたのは間違いなく恋愛至上主義だが、実は咲子と高橋さんの間にも家族至上主義という溝が少なからずあったんじゃないかと思う。
家族から愛された咲子が、家族をいいものだと捉えているとすると「家族になりませんか」と口をついて出たのも納得がいくし、それに対して「舐めてるんですか」と苛立ちを見せた高橋さんの気持ちも少しわかるような気がする。
「家族になりませんか」という言葉は、外向的かつ家族から愛された咲子だからこそ出た言葉だったんじゃないだろうか。
少なくとも、高橋さんの口から出るような提案ではなかったと思う。
しかし、高橋さんもまた「家族」に囚われている人だった。
ある意味咲子よりも、家族のカタチに囚われていると言えるかもしれない。
高橋さんにとっての家族は、今は亡きお祖母さん。
お祖母さんが生きていた頃は、お祖母さんのために遥さんと交際していたし、お祖母さんが亡くなってからは、お祖母さんと過ごした家に住み続け、その家を守り続けている。
咲子と暮らし続けているうちに、家族ではなく「家族(仮)」とはいえ、咲子のことも高橋さんは大切に思うようにもなっていた。
だから、遥さんに仕事の提案をされたときに断り、咲子との今の生活を選んだ。
別々に住んでしまったら「家族(仮)は終わり」だと思っていたから。
そんな高橋さんの思い込みを取り除いたのは、他ならぬ咲子だった。
別々に住んでも終わりではない、というか、家族というカタチが合わないんだったら家族そのものをやめちゃったっていいんだと。
確かに、法律的に保証のある婚姻関係と違って、法律的な保証のない「家族(仮)」という関係は、別々の場所に住んでしまったら、簡単に消えてしまうように見えるだろう。
だが、婚姻関係だったなら、同じ場所に住んでいたら、家族だと絶対的に言い切れるのだろうか。
結局重要なのは、その関係を家族だと、本人たちが思っているかどうかなんじゃないだろうか。
家族じゃなくても、「家族(仮)」だって同じことだろう。
そして、その関係を家族だと思うのが苦しければ、そう思わなくたっていい。
そんなふうに言われているような気がした。
冷たい言葉だと思う人もいるかもしれないが、自分はそうは思わない。
むしろ、今「家族」に苦しんでいる人にとっては、温かい言葉だと思う。
そもそも友人関係だって恋人関係だって、法律的な保証は何一つない。
そこにあるのは、本人たちが友人または恋人だと思っているということである。
なのに家族となると、思いを無視して住んでいる場所やら法律的な関係やらを求められがちである。
法的な何かしらの処置をするときはその考えが必要なのは重々承知だが、それと関係ない日常生活においても、その考えを持っているのは窮屈だなあと個人的には感じる。
『恋せぬふたり』は、アロマアセクの咲子と高橋さんの人生の一部を切り取ったものだが、その中にはたくさんの価値観の衝突やすれ違いが描かれている。
衝突やすれ違いが起こるのは、2人がアロマアセクで世間はそれを認知していないからというのもあるが、原因はそれだけではない。
1人1人バックグラウンドの違う人々が日々関わり合っているからである。
関わる相手の数だけ、価値観の衝突やすれ違いは起こり得る。
周りにいる人々は生きている人間であり、アロマンティック・アセクシュアルの人々もまた同じ人間なのだ。
理解不能な幻の人々なのではない。
皆、生きている人間なのである。