ずっと天才だと思っていた方から、コメントを頂いたので戦々恐々としている。頑張ります。
げんにびさんから「アドラー心理学の魅力とはどの辺でしょうか?」というコメントが来て、私如きに魅力を伝えられるかなと心配なのだけれど、兎に角やってみる。力不足な気がするが。
と言っても、アドレリアンではない私がアドラー心理学を語る事を、多分野田先生は許されないと思うので、殆ど引用になってしまう。アドラー心理学の全体像を分かっている、なんて口が裂けても言えないし、私的な解釈を入れずに正しく伝えるためにはその方が良い。万人が魅力的だと思える部分って多分無いと思うので「私が」魅力的だと思った部分を。
「アドラー心理学」と言ってもそれを独自に進化というか、自分の思想だったり概念を入れている方がおられ、しかもそういう方々が本を書き、世に出しているので、酷く混乱しているのだけれど、ここで紹介するのは「野田のアドラー心理学」であることをご了承いただきたい。
私は別に「アドラー心理学オタク」ではなく「名越康文 野田俊作オタク」なので、人様に魅力を伝えるなんて何十年も早いのだが、私が知っている部分だけでも記載しようと思う。
げんにびさんなら、きっと「心の理論は全て仮設であり戯論である」という事は既に理解されていると思うので、その前提で。
「アドラー心理学」とは何か?
理論的な部分では、1個人の主体性、2目的論、3全体論、4社会統合論、5仮想論の5つの基本前提理論、共同体感覚の思想。で成り立っているのだが、この辺は別に調べれば幾らでも出てくるので割愛。
興味があるのなら、ここが分かりやすくまとめられている。
まず「アドラー心理学」とは何か?という話をしなければならないのだが、今現在「アドラー心理学」と呼ばれている物は、「アルフレッドアドラーの」心理学ではなく、「アドラーとそれを脈々と受け継いできた者たちの」心理学の事を「アドラー心理学」と呼ぶ。
日本に一番始めに「アドラー心理学」を持ち込んだのは「野田俊作」という精神科医で、彼はアドラー心理学を学ぶ以前は主に行動療法を学んでいた。当時はまだ「認知」のついていない行動療法で、たとえば系統的脱感作療法のような、古典条件づけにもとづく治療だった。
様々な心理療法を学ぶ過程で彼は、バーナード・シャルマンの「精神分裂病者への接近」という著書に出会い、その理論のバックボーンがアドラー心理学である事を知り、そこからアドラー心理学へのめり込んで、シカゴにある、アルフレッドアドラー研究所に留学、帰国後の1984年に日本アドラー心理学会を設立。現在の日本で広まっているアドラー心理学に繋がる。
日本に持ち込んで来たのが野田俊作な訳なので、当然、そこに至るまでの系譜も現在の日本のアドラー心理学に多少なりとも影響している。
アドラー心理学第二世代、つまりアドラー直系の弟子の殆どが、ナチスの迫害の犠牲になってしまい、正直に言って、今でもアドラー心理学が残っているのが奇跡なぐらいなのだが、アドラー心理学第二世代の中でも著名な者が、ルドルフ・ドライカースと、ハインツ・アンスバッハーである。
第三世代はドライカーズの弟子であるバーナード・シャルマン、そしてハロルド・モザック、オスカー・クリステンセン等が有名だ。
第二世代のアンスバッハーは人間学派で、第三世代のシャルマンは現象学の影響を強く受けている。また、アドラー心理学は心理家だけの物ではなく、一般にも広く開かれた物なので、個々の職業などでも、発展の仕方が結構変わっている。以下は野田先生の日記である。
臨床心理学の歴史を概観するなら、1910年から1950年頃までは意識/無意識がテーマであり、1950年から1990年頃までは人間の行動と認知が主なテーマだった。
アンスバッハーやドライカースのまとめたアドラー心理学の体系は、時代の影響、おもに認知主義の影響が色濃く見られ、それに対して1990年代以降の第4世代アドレリアンたちは、多かれ少なかれポストモダン思想の洗礼を受けている。野田先生はというと、さまざまな思索の末、最終的には構造主義的な立場を選んだ。
ところでこの「偽アドラー心理学」とはどういった物か。野田先生は厳密に分けておられたけれど、私は、一番無くてはならないのは「共同体感覚」だと思っている。仏教だと「世俗菩提心」や「仏性」がそれに近い。
アドラー心理学はよく「心理学」というより「思想」である。というような事を言われるが、その通りだ。むしろ宗教に近い感覚がある。じゃあ何故「心理学」にしたのかというと、その方が広く後世に残せるからだと言う事を聞いた。
実際アドラー自身も「誰ももう、わたしの名前など覚えていないときがくるかもしれません。個⼈心理学という学派の存在さえ、忘れられるときがくるかもしれません。けれども、そんなことは問題ではないのです。なぜなら、この分野で働く⼈の誰もが、まるでわたしたちと一緒に学んだように行動するときがくるのですから」と言っている。
つまりアドラー心理学が、もう少し私的な解釈を入れて良いなら、共同体感覚が「あたりまえ」になる事を望んでいたのだと思う。「アドラー心理学」や「共同体感覚」という言葉が無くても良い程に。
共同体感覚に関しては、野田先生程学んだ人でないと、明晰に語りえないような気がするので、あらぬ誤解を招かない為にも、この辺で控えておく。私が共同体感覚を少しだけ理解できたのは、学会誌に記載されていた「人間であること」という以下の随想である。
Yes,butと、治療的枠組み
野田先生は事あるごとに「心理療法とは騙しの技術である」という事をおっしゃっていた。アドラー心理学の心理療法は、「病気を治す」事を目的にしておらず、クライエントが自分の人生を扱いやすくなる事を目指す。
「この症状さえなければ、私は幸福に生きられるのに」という考え方がある。これにたいして、アドラー心理学は「症状があってもなくても、それとは関係なく健康に生きる方法は学べます」という線を譲らない。つまり、困難事例が少なく対応できる幅が広い。
先ほど「アドラー心理学のカウンセリングは、クライエントが自分の人生を扱いやすくなる事を目指す。」という事を言っていたが、あれは半分正解の半分間違いである顕教で、アドラー心理学の密教は違っている。
では密教とは何かというと、クライエントにアドラー心理学を教える事である。もっと正確に、忌憚なく言えば「共同体感覚を持ちましょう」というのが「顕教」で「劣等コンプレックスを封じる」というのが「密教」だ。
劣等コンプレックスとは「それはわかっています。けれども私は○○なので、○○することができません」という類の事なのだが、これはちょっと露悪的で、傷つく人も居る気がするので、私はもう少し上品に、というか希望を持って「人に優劣が無い事を全員が理解する事」だと思っている。
つまり、アドラー心理学の(正確にはアドラー心理学"だけ"の)カウンセリングとは教育である。もっとも、この段階はまだ魔法使いではなく祈祷師であり、スピリチュアリティを交えるとさらに進化する。実際、アドラー派の手練れのカウンセラーは、結構な割合で何らかの信仰を持っている。
だが、教育というのは自分が正しいと思っている物に対して相手を導くという事なのだから、共同体感覚の意に反する。そこで「治療的枠組み」という物がある。これは「一方が教える人、一方が学ぶ人」ということについて、双方が合意していることだ。アドラーがもっとも、深いところで望んでいたのは「人が人を道具として扱わない」という事なのだから、当然のことである。
ね?宗教に近いでしょう。もっとも、神霊との交流はないが。
野田先生が言うには、アドラー心理学は「心のきれいな人」を作ろうとしている。その点で宗教に似ている。ただ違うのは、世俗的に言えば「人格神を認めない」し、哲学的に言えば「価値観が理性的である」ので、宗教ではなくて思想である。
前者は、宗教を持っていない人にはわかりにくいことかもしれないが、仏教であれキリスト教であれ、神仏は頭で考え出された抽象物ではなくて、現に生きておられるものだ。アドラー心理学は、そういう意味での神仏は想定していない。後者は、共同体感覚は理性でもって考えれば納得できる価値観だが、宗教の価値観は理性を超越したもの、理性では手の届かないものだ。とのこと。
さて、野田先生はよく「騙しの技術」という事を言っていたが、それはどのような物か、例えばこういう物がある。
神経症的策動 (neurotic maneuver)という言葉をご存知だろうか。これはあまり人聞きのいい物では無いので、気分を害してしまう方もおられるかもしれない。
アドラー心理学が嫌われるとすれば、例えばこの上の引用文の「社会的な責任を免れるための手段」という部分だけが強調されて、しかもこれを他者を攻撃する為の道具として、治療的枠組み、もっと言えば、「共同体感覚」というアドラー心理学全体を包んでいる思想を、無視している方が増えているせいだろう。
まぁ密教にも密教たる由縁があるわけで、これに関しても、あまり公の場で言い過ぎると、多分アドラー派のカウンセラーがご苦労されると思うので、興味のある方だけ以下から読んでみて下さい、一週間に渡って「なぜアドラーか」という事を書いています。
「アドラー心理学は、お稽古事である」
仏教とアドラー心理学
アドラー心理学と仏教は親和性がある。似てはいないが親和性がある。もっとも、これはアドラーが意図した物だと思う。アドラー心理学には真ん中に筒が空いていて、そこに宗教を入れられるようになっている。
野田先生は10代の頃に仏教に出会い、医学部を出たのち、自身の仏教理解を確認するために、佛教大学の通信過程に入学。学位は取らずに4年間満了ののち退学 (私の記憶が正しければ)
30代の頃、ラジニーシのコミューンに入り、2013年にガルチェン・リンポチェから帰依戒を授かって、はれてチベット仏教徒になり、日本ガルチェン協会を設立。ドルズィン・リンポチェ氏をお招きし、勉強会を開かれ、チベット語の経典を訳し… と敬虔な仏教徒でもある。
http://adler.cside.ne.jp/database/003/003_01_noda.pdf
そして上記のリンクにある「アドラー心理学の東洋的展開 (1)個人の存在様式をめぐって」という論文が、初めて野田先生がアドラー心理学と仏教を比較した物である。お恥ずかしながら、私の仏教理解はまだまだ甘ちゃんなので、「絶対的全体論と相対的全体論」辺りから、読み解いてその先を考えようとしても知識が足りないのだが、げんにびさんなら多分すらすらと読めると思う。興味があれば是非。
因みにこの論文は3部構成で、その第1部なのだが、惜しむらくは、全て完成する前に亡くなられてしまった。意図的に断念されたのか、力及ばずだったのかは分からない。一応中間報告のような物がここにある。
野田先生は、アドラー心理学は仏教の、仏教はアドラー心理学の、サブシステムになれると言う。生前に「野田先生はアドラー心理学を補完する為に仏教を学ばれたんですか?」と聞かれた際「いいえ、私は仏教を補完する為にアドラー心理学を学びました」と言っていた。
仏教は世俗の人間関係の問題を解決する為の知識は持っておらず、アドラー心理学はその流れを汲んで現代風に「人間関係を」改善できると。つまりアドラー心理学とは「どう生きるか」という答えを得るための物ではなく、ひたすら対人関係に関する技術しか持っていない。
今日は一日掛けて文献やら論文やらを、引っ張ってこの記事を書いていた。「野田先生」と書かれたブラウザのブックマークのそれぞれのタイトルが、内容ではなく日付だけなのを改めて恨んだが、まぁ何とか伝えたい部分は伝えられたと思う。
正直に言って、仏教以上の完成された大統一理論を、私も野田先生も知らないので、げんにびさんの興味をそそるかは分かりませんが、まだまだアドラー心理学も発展途上ですからね。これからも応援しております。