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"sense of wonder"を求めて
久しぶりに筆を取るのだが、ふつふつと自分の中で書きたい気持ちが湧きあがりいってもたってもいられなくなった。
久しく忘れていたような、情熱に溺れるような、純粋で真っ直ぐな想い。こういう感情は前々から持ち合わせていたが、仕事をするにつれて十分な時間がないと言い訳を続けて、自分を騙し騙しやってきた。
自分の中のこうしたい!とかやってみたい!というのが大人になるにつれて常識や慣習という圧力で潰されるということがままある。そういう感覚を味わう人は少なくないのではないか。
それでも体の内側、心の中をよく見てあげるときちんと自分の真っ直ぐな心が顔を覗かせていて、そういった心を見つけて育ててあげることが大切だなあといつも思う。
自分の場合は、アーティスティックな側面が書くという行為を通してである。絵や音楽、写真、ダンスいろんな表現があるけれど、昔から書くという行為がそんなに嫌いじゃなかったし、自分にはすごく馴染んだ感触を味わうのである。
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○sense of wonderを読んだ
さて、書きたいという衝動が湧き上がったのには理由がある。レイチェル・カーソン筆、”sense of wonder”に最近出会ったところから話は始まる。
ちょうど福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」を読んだり、生命やこの世界のあり方について心を寄せていた。
生命という複雑な動的平衡システムが成し遂げた仕組み。自然淘汰という単純な原理によって削ぎ落とされた神秘的なまでに美しい生命の仕組み。そうした先に生命のあるべき理由はあるのか。人も生命も遺伝子の乗り物に過ぎないのではないか・・・
答えの出ない問いをぶつけては、考えるということを繰り返していた。
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これまた別のタイミングで写真家の川内倫子さんの作品がある美術展に寄っていた。倫子さんの独特な世界観、自然の情景に心を奪われた。
そういえば、sense of wonderは川内倫子さんの切り取った神秘的な写真が入っていたなあとふと思い出した。さらにみると福岡伸一さん含む日本屈指の執筆人のコメントが入っていると!!
そんなこんなで引き寄せられるように本を手に取った。
環境界にいて「沈黙の春」を知らないものはいない。
自然を破壊し人体を蝕む化学薬品。その乱用の恐ろしさを最初に告発し、かけがえのない地球のために、生涯をかけて闘ったR・カーソン。海洋生物学者としての広い知識と洞察力に裏付けられた警告は、初版刊行から四十数年を経た今も、衝撃的である。人類は、この問題を解決する有効な手立てを、いまだに見つけ出してはいない―。歴史を変えた20世紀のベストセラー。
と紹介のあるとおり、環境保護という概念を浸透させた、まさに歴史を変えた本である。
この本を読んだのはおそらく大学2年生の頃で、環境問題に関心がありながらもまだ大した行動ができていなかった。
まずは知るところからと読み始めたいくつかの本の1つがこの本である。
そのときはなんだか、よく分からないと思いながら読んでいた。我々の世代はもはや公害という問題に終止符が打たれ(本当はそうではないけれども)、気候変動というより強大な問題が立ちはだかっていたからである。
そんな時代を思い返しながら数年ぶりにレイチェル・カーソンの本を手に取った。
雨のそぼ降る森、嵐の去ったあとの海辺、晴れた夜の岬。そこは鳥や虫や植物が歓喜の声をあげ、生命なきものさえ生を祝福し、子どもたちへの大切な贈り物を用意して待っている場所……。未知なる神秘に目をみはる感性を取り戻し、発見の喜びに浸ろう。環境保護に先鞭をつけた女性生物学者が遺した世界的ベストセラー。川内倫子さんの美しい写真と、半世紀たっても輝きを失わない理由を説く豪華執筆陣による解説とともに贈る。
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sense of wonder
「美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性」と本書では訳される。
この本を手に取った時に、「ああ、自分が体現したかったのはこれなんだ」と妙に腑に落ちて、そして読み進めて、そうその通りだ!と共感の嵐だった。
この言葉ともう少し早く出会っておけば良かったと後悔するくらい、自分の人生を体現する言葉だった。
春の生命が凛と色づき、景色がカラフルに輝く瞬間。
夏の夕暮れのまさに日が沈もうとするとき、海辺がさざ波の音だけを残し、少し不気味な、それでいて美しい景色。
冬の朝、外に出ると肺が凍ってしまいそうな空気を吸い、寒さに震えながら見る一面の雪景色。
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挙げればキリがないのだけれど、この世界はまさにwonderに溢れている。
あの美しく、それでいてちょっと恐れ多いような景色。人間には到底追いつけないような生命の圧倒的な時間が生み出した複雑なモデル。そういったものに思いを寄せる感覚。
これほどまでに私が体現したかった言葉はなかった。
ずっと、こういうものを追い求めてきたし、これからも追い続けて行きたい。
wonderという意味では、人の作った文化的なもの、社会的なものも忘れてはならない。
確かに、自然と比べれば刻んできた時は圧倒的に短いけれども、知恵を積み重ね共有して大きな文明を生み出してきた。
歴史的な仏閣、自然と共生した田園風景、大都市の構想ビル群でさえ、そこには多くの人の想いや願いが重なっている。そう思うと人のこれまでの知識や行動に畏怖の念を覚えざるを得ない。
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そんなに特別なものでなくても、帰り道の夕焼けがやけに綺麗だったり、しとしとと降る雨が葉につたって、垂れていく様子や、台所からジュージューとフライパンが音を鳴らして、香りが漂う日常の多くにwonderが溢れていると思う。
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今年度が始まって半年が経とうとしているけれども、社会に身を置いているとどうしてもwonderを感じられなくなってくる。それが非常に単純化すると現代資本主義の闇の一つである。合理性と単純化、そしてそれに伴う分断。それは、自然が持つ複雑で曖昧で、何もかもを包み込むような包含性と繋がりから反してしまう。
環境問題に取り組んできた身からすると、ほとんどはこうした自然の持つ摂理から反した結果から生まれたと言わざるを得ない。化学物質の合成、化石燃料や鉱物の採掘、そうした先の便利すぎる世の中。
東京も悪くない。
現代も悪くない。でも大切なものは置き去りにしてはいないか。
自然と触れ合っていれば、自然のその大きすぎる存在への畏怖とか、生命の循環、つながり、地球一体としての平和への心が生まれてくる。
工学を学びながら環境問題にアプローチしてきた身としては、やはり環境問題に対する科学の貢献というものは、どうしたって必要だろう。科学というものが資本主義というものと結びついてきた以上、環境問題を資本主義的なアプローチで解決する。すなわち、人間が引き起こした問題を人間の手で解決するということもありうるだろう。
でも、それ以上にボトムアップ的なアプローチを忘れてはいけないと常々思う。それは、エシカル消費とか、デモとか市民運動的なものではなく、(それはそれでもちろん大切なことだが)自然というものに畏怖や敬虔な心を持つこと、すなわち"wonder"を感じる心を育てることである。
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そして、できれば丁寧な暮らしをしていくことである。朝起きて、深呼吸してお日さまの中を散歩して、ぐっと背伸びをする。そして、掃除をして、料理をして、食事を丁寧に味わう。
そうするだけで、自然とのつながりグッと近くなるし、自然にこの社会や地球への感謝が生まれる。そうやって地球の全体性を味わうこと。
現代社会で難しいのは、この時間というものが極端に重宝されること。サラリーマンという存在自体がシンプルに考えれば、時間の切り売りなので、この時間を確保することがずっと難しくなっている。
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毎日とは言わずとも、時々丁寧な暮らしをしてみる。自然と触れ合ってみる。(幸いなことに日本は山と森と水の国だから、東京でさえ新宿御苑のような素晴らしい自然が身近にある)
あと、できれば旅をすること。”wonder”とはまさに、「さまよう」ことであり、さまよって、いろんな価値観や景色に触れ合う中で気づく多様な社会や姿に気づき、それをもとに客観的な私という存在に気づくこともできる。そういう自分と自分の周りにある"narative"に気づくことは、自然がもつつながりにもなる。
そうやって、自然とのつながりを覚えていけば、"wonder"という子供の時に感じていた、あの自然への畏敬が生まれ、人類愛を超えた世界愛、その先の"wonder"が"full"な"wonderful"な世界へと向かうのではないか。
私もレイチェルが自然を愛して、wonderを感じ取る中で地球の危機と向き合ってきたように、この世界のwonderを味わい尽くして、より"wonderful"な世界となるように、歩んで行きたい。
(ps:載せきれなかったwonderfulな景色)
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