第一話「アサガオのアクマ憑き」
あらすじ
植物に乗っ取られた人間が「アクマ憑き」として戦う世界――銀行に内定した主人公は、遅刻して入社式へ向かった。入社式では、499人の内定者たちが意識不明の重体となっていた。主人公は敵に襲撃されるが、銀行員の女性に助けられる。再び命の危機が訪れるが、寮母からもらった「朝顔の種」が身体に取り込まれ、「朝顔のアクマ憑き」となった。特殊部署に配属された主人公は、街で起こる怪奇事件を解決していくが……前代未聞の銀行×植物×お仕事ファンタジー!
第一話「アサガオのアクマ憑き」
一
ベッドの脇にあるスマホで11時という時刻を確認した時から、最悪の一日は始まっていた。顔を洗い、歯を磨いて、髪をとかす。スーツを着て、部屋を出て、階段を降りた。寮の受付にいる、ばあちゃんから呼び止められた。
「……くん、ほら朝顔の種だよ」
「種?」
「庭で咲いていた花が、種をつけたんだよ。よく水をやってくれていたじゃないか」
「あー。それは酔っ払って、小便かけてただけ……いや。何でもない」
意味深ににっこりと微笑む未亡人、モモヨ。会社の男子寮に住むことになった一週間前から、出かける時は毎回お見送りをしてくれる。グレーの髪をお団子に結わえた、典型的な70歳だ。
「今日は大事な日なんだろ? 種を持っておいき。気分がざわついた時は、これが整えてくれるからね」
「は? ただの種だろ?」
「良いんだよ。年寄りの言うことは、ほとんどが間違っているけど、聞いておいて損はないよ。人間は失敗からしか学ばないんだから、ね」
ばあちゃんは5粒の黒く小さな種を、スーツの胸ポケットに押し込んだ。寮を出てすぐにドブに捨てようか迷ったが、やめておいた。ばあちゃんは毎日、近所を掃除している。ドブから朝顔が生えていたら、きっと気づくだろう。
「まあ、いいか」
帰りにばあちゃんにお土産でも買ってやるか。そう思いながら、小田急線に乗り込んだ。スマホでXを眺めると「日曜日だ。一週間の中で一番救いようもない曜日だ」とポストされている。チャールズ・ブコウスキーの本の引用らしい。最も救いようがないのは、入社式に3時間遅刻している俺だった。
「おかしいな。スマホのアラーム、かけたと思ったんだけど……」
そんな言い訳が人事部に通用するわけがない。車窓から見える見事な、桜並木だけが、俺を慰めてくれた。
八菱銀行丸の内本部に到着すると、行員通用口の辺りに大型バスが十台ほど停まっているのが見えた。
「あ、そういえば。入社式の後、そのまま研修所に行くんだっけ」
はるか北の収容所、苗場研修所に送還されるのだ。俺はたった今そのことを思い出したので、宿泊用具は何も持ってきていなかった。内定者――今は新入行員――LINEでは、学級員タイプがリマインドのメールを流していたのかもしれないが、俺はそのグループに入れてもらっていなかった。
「仕方ないな。Amazonで頼めば良いか」
俺は行内通用口に足を踏み入れて、入口までの長い廊下を歩いた。そういえばあのグループに入れてもらえるように頼んだけど、やんわり断られたな、と忌々しく思い出しながら。
エレベーターホールまでは迷うことなく到着できた。就活中に何度も採用面接で呼び出されたせいだ。インターンで優秀な成績を収めた者や、親がどこかの社長で出世コースが確約されている者は、面接の回数は少なくて済むらしい。新入行員の中で最低学歴の俺は十三回の面接で、その回数はダントツの一位。なんとも不名誉なランキングだ。エレベーターに乗り、地下二階のボタンを押した。
「そういえば、今日はいつもいるガードマンがいなかったな」
このエレベーターだって、いつもぎゅうぎゅうに人が乗っている。珍しく一人なので呟いてみたが、それは不吉に響いた。
「それにこのエレベーター、アロマなんて焚いていたか?」
ほのかに薔薇の香りがする。いかにも丸の内で働く人間が好きそうな試みだ。これからこんな匂いを嗅いで働くのかと思うと、少し憂鬱になった。そういえばこのエレベーターは壊れかけていると、前に乗り合わせた行員が言っていた。修理の前にアロマを焚くとは。
ブーン……という機械音は、エレベーターが突然止まるという程度では済まないくらい、とんでもなく悪いことが、この先に待ち受けているかのような気にさせた。そしてこの予感は、あながち間違っていないことになる。
地下二階に到着し、目の前にホールの入り口があった。もう入社式は始まっているせいか、扉は閉じられていた。俺はまずトイレに行くことにした。もうすでに三時間以上も遅刻しているのだ。今から五分遅れたところで、そんなに変わらないだろう。
トイレの鏡に映った俺は二十四歳という実年齢よりも、二十歳ほど老けて見えた。灰色の髪は寝ぐせでぼさぼさだ。くたびれた灰色のスーツと白いシャツは、まるでカジノで全財産をスッた敗北者のようにも見える。しかし、もうどうでもいい。これで内定が取り消しになるわけでもないし。輝かしい大企業での生活が、俺を待っているのだ。用を足し、トイレを出て、ホールの扉に手をかけた。そして違和感に気がついた。
「ん? やけに静かだな」
しかし今更、引き返すわけにはいかない。俺は違和感を心の奥にしまいこんで、扉を開けた。そこには地獄が広がっていた。いつも手遅れになってから思うのだ。「そういえば」と。
二
「何だこれ。冗談だろ……」
ホールには、新入行員が座るための椅子が五百脚あった。しかし座っているのはヒトではなさそうだ。首や身体が、それぞれ不自然な角度に曲がっている。俺は一番近くに座っている女性行員の顔を見てみた。口はだらりと開かれて、虚空を見つめる目からは何の感情も読み取れない。
「なんか、人形みたいだな」
彼らには、まるで生気がなかった。スマホで人事部に連絡を取ろうとしたが、圏外だ。俺は一度、ホールから外に出ることにした。確か八階が人事部のフロアだったはずだ。会場の様子を正確に伝えるために、スマホで動画を撮ることにした。スマホを構えると、壇上から声がした。
「あれ? まだ残ってる人いるの?」
少女の声だ。彼女はピンク色のツインテールを揺らしながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。愛らしい顔をしている。年は10代後半といったところか。ふんわりとしたブラウスとスカートをまとう姿は、まるで貴族のようにも見えた。ただし不良グループで、誰かをいじめたくてたまらないタイプのお嬢様だ。
「おにーさん、やるじゃん! あたしの攻撃受けても、平気でいられるなんてさ」
「こいつらに何をしたんだ?」
「あはは! おにーさん面白いね! こいつら、だってさ。俺たち、じゃなくて?」
ピンク色の少女は、桃色の瞳をスッと細めた。
「食らってみる? 周波数をガンガン乱してあげるよ!」
「は? 周波数?」
少女が指を鳴らすと、むせかえるような薔薇の香りが、鼻を突いた。
「な、なんだこれ……」
俺は膝から崩れ落ちた。鼻と耳から血が吹き出し、それをぬぐう力が湧いてこない。二日酔いを十倍にしたように気持ち悪かったし、頭がガンガンと痛い。生まれてきたことを後悔させられるような痛みだった。
「あたしの『絶望』、どう?こんなに辛いなら、手放した方が良いと思わない?」
少女は床にうつ伏せになった俺のあごを上げて、目を合わせて来た。彼女のギラつく桃色の瞳を見つめて、俺は言った。
「てば、なす……?」
「うん! 生きること、やめちゃおうよ!」
歌うような少女の声は、甘く俺を誘う。薔薇の香りが強くなり、意識が遠のいていく。あぁ、そうだ。今まで頑張って生きてきたけれど、大して良いことはなかったじゃないか――
「そこまでだ、ローサ。薔薇のアクマめ」
どこかから女性の声が響いた瞬間。俺の真横を、刀のような緑色の物体がかすめた。それは植物の茎で、少女の口を貫いていた。
三
「え?」
少女は後ろ向きに倒れた。パンツが見えそうで見えなかった。口から抜かれた茎は、女性の掌にしゅるしゅると入っていった。ネックホルダーには行員証がぶら下がっていて、どうやら同じ銀行員らしい。彼女は言った。
「辛いから生きるのを手放すだって? バカを言うね。辛いからこそ楽しいこともあるんだろう。辛くなければ楽しくもないよ。丸ごと飲み込みな」
彼女は俺に向き直った。黒髪に黒いパンツスーツ、切れ長の目。まるで葬儀屋が、冷徹で非情な銀行員にも見える。歳は20代後半か、30代前半くらいだろう。
「君、怪我は?」
「俺は大丈夫です。でも、みんなが……」
葬儀屋女は辺りを見渡して、やれやれと言った様子でため息をついた。
「遅かったか。まさか新入行員を狙うなんてな」
「みんなはどうなっちゃうんでしょうか」
「周波数を乱されて、エネルギーを奪われている。日常生活を送るのは難しいだろうな」
「周波数って何ですか?」
チッ、と舌打ちをされた。この人、絶対に人を育てることに向いていない。彼女が指導担当者じゃないことを、心から俺は願った。
「音楽や絵画を見て、鳥肌が立ったり、感動したり、涙が出たりすることがあるだろう。これは音楽なら聴覚を使って、音の波長、つまり周波数を取り入れているんだ。絵画なら、光の波長という周波数になる。その取り入れた周波数が脳と共鳴して、感情を巻き起こすんだよ」
「それがエネルギーと、どう関係するんですか?」
俺はどちらかというと、葬儀屋女の胸を見ながら言った。静かに上下している。随分と控えめなお胸だった。
「ある音楽を聞いたら、勉強がやる気になったりするだろ。周波数は感情とも関係しているんだよ。お前の仲間たちは周波数を乱されて、絶望や無気力状態に陥っている。つまりエネルギーがゼロなんだ」
「はぁ」
「そこで、仲間を元に戻してあげるためには、君の力が必要なんだ」
またその言葉だ。周波数、エネルギー、仲間、君の力。ゲームの世界じゃあるまいし。この一連の流れもきっと、遅れて来た俺を罰するためのドッキリか何かだろう。俺は踵を返して、来た道を戻って歩き始めた。後ろから声が追いかけてくる。
「どこに行くつもり?」
「家に帰りますよ。ゲーム会社に就職したわけじゃないし、スピリチュアル界隈もうさん臭くて苦手です。家で荷物を準備して、新幹線に乗って、研修所に向かいます」
もうこれ以上は付き合いきれない。そんな感情が伝わるように、彼女に言った。こんなものは悪い夢に決まっているからだ。彼女は呆れたように言った。
「499人の新入行員はどうなる? 仲間じゃないか」
「は、仲間ですって?」
聞き捨てならない言葉だ。俺は葬儀屋女の方へ振り返った。相変わらず表情を欠いた目をした彼女に、俺は言った。
「そんなこと、一度も思ったことないですよ。俺は同期の中で一番学歴が低い。育ちも悪い。それだけで散々な目にあってきました。飲み会には呼ばれなかったし、必要な連絡すら回ってこない。周波数だかエネルギーだか分からないけど、こいつらは放心状態にあるんでしょう? どうせ演技だろうけど、本当だとしても、良い気味です。こいつらの意識を取り返すための努力なんて、俺はこれっぽっちもしようと思いません」
沈黙。説教が降りかかってくるかと思いきや、俺の予想に反して、彼女は少しだけ笑みを浮かべた。すると床に倒れていたピンク色の少女が、起き上がった。
「おかしいじゃん! こうすれば大人しくエネルギーを奪えるって話だったのに」
「ああ。筋書き通りに行かなかったな」
「しっかりしてよ、ミント。あんたら人間のことは、よく分かんないんだからさぁ」
ピンクの少女は、葬儀屋女の横に並んだ。年齢差と身長差から、二人はちぐはぐに見えた。まるで親子みたいだ。
「それで、どうするわけ? 多分無理でしょ、おにーさんを説得するの」
「そうだな。私たちの仲間になってもらうか」
「何の植物も取り込んでない人間を? 人間はあんた一人で十分だってば」
「でも、なかなか面白い奴だ。おい、最後にこれだけ教えろ。今からどちらか選べ」
葬儀屋女は、切れ長の目で笑った。彼女は歪んだ笑みを浮かべた。うまく笑えていない。笑うのは四年に一回と決めているのだろう。
「499人の仲間を殺すか、お前が殺されるか」
ドSモラハラ女め、と俺は思った。これで俺が同期を見殺しにしたら、一生、罪悪感を抱き続けることになる。実際に手をしたのは彼女たちなのに。
「確かに、このまま死なれたら目覚めが悪いですね。貸した金も、まだ返してもらってないし」
そうだろ、と葬儀屋女の目が急かしてくる。俺が自己犠牲を払うべきなのだろう。その方が日本の未来のためにはなるに違いない。でも、もうそんな人生は勘弁だった。かといって、同期を殺すのも気が引ける。放心状態ならいいが、殺すのはさすがにやりすぎだ。だから、ひとまず彼女たちの仲間になるふりをして、後からあいつらは助ければ良い。そう決心して、明るく元気よく言った。
「仲間を見殺しにします!」
次の瞬間。俺の胸に、太いナニカが突き刺さった。
四
「クズ野郎が……」
苦々しく葬儀屋女は言い放った。俺はゆっくりと視線を自分の腹に向けた。こんなにまじまじと自分の腹を見たのは初めてだった。そこには植物の茎が刺さっていた。俺の腹を貫通している。茎が血をごくごくと吸っているようだった。
「えー? それだとエネルギー奪えないじゃん」
「いいよ。こんなやつのエネルギー、たかが知れているだろうし。それより、そろそろ撤退しよう」
「植物たちはそのままでいいの?」
「いずれ消えるからな」
2人の声と足音が遠くなっていく。あぁ、そうか――と俺は思った。このどこか覚えのある清涼感の匂いは、ミントと言う草花だった。俺はうつぶせに倒れたまま、朦朧とする意識の中で考えた。
俺の人生って一体、何だったんだ? 頑張れば報われるって信じて、児童養護施設を抜け出して、夜な夜な街中のゴミ捨て場を漁って、過去問を拾って勉強し続けた。なんとか大学に入って、デカい会社に就職した。でも、ちっとも報われなかった。それならもっと好きなことをして生きていけばよかった。デートしたり、ゲーセンに行ったり、家族に会いに行ったり。
そして、寮のばあちゃんだ。鬱陶しくもあったけど、何かと世話になった。それなのに、何も恩返し一つできなかった。
「ばあちゃん……」
俺は胸ポケットにある朝顔の種の存在を思い出した。そうだ、朝顔があった。
「ごめん。俺、もう頑張れないわ……」
俺は仰向けになった。最後に見るのは、下より上の方が良かったから。自分の腹を見て、俺は目を疑った。胸ポケットの朝顔から、にょきにょきと芽が伸びている。芽は意思を持ったかのように動き回り、ミントの茎を掴んだ。いつの間にか意識レベルは回復していて、俺はその様子を眺めた。
「もしかして、朝顔がミントを抜こうとしてるのか……って、いてえ!」
ブチブチブチ、という音とともに、朝顔の芽がミントの茎を引き抜いた。役目を終えた朝顔の芽は、腹の穴にしゅるしゅると収まり、そこを埋めてくれた。
横に放り投げられたミントの茎を見た。血を吸った茎は、俺が知っているそれよりも随分でかくて、凶悪な日本刀のようだった。やるべきことは一つだった。俺はミントの茎を手に取り、立ち上がった。
おそらく理想的な人生というのは、彼女たちが去った頃合いを見計らって、エレベーターに乗り、八階の人事部に行くことだろう。そうすれば、残りは偉い人たちが何とかしてくれる。俺は499人の同期を助けたことになり、英雄扱いされる……。
「借り、返しに行くか」
しかし、俺はエレベーターに乗らなかった。彼女たちを追いかけるために、階段を上がった。シャツは破れていたので脱ぎ捨てて、スーツの上着だけを羽織った。もう誰かの目を気にして、手本をなぞるような人生を生きることは、やめたんだ。
・・
「おい、ちょっと待てよ」
階段を登っている彼女たちへ向かって、俺は声をかけた。彼らはゆっくりとこちらを振り向いた。
「忘れ物だぜ?」
俺はミントの茎たちを投げた。2人の視線がそちらに向かった時に、腹に力を込めた。そこから大量の芽が放出されて、二人をグルグルに縛り上げた。
「朝顔ってすげえよな。どこにでも芽を出して、望まれてもないのに生えてきて、勝手に大きくなってさ……」
朝顔の芽は2人をぎゅうぎゅうと縛り付けて、口をふさいでいる。俺は言葉を続けた。
「返してもらおうか。499人のエネルギーとやらを。てか、全部俺によこせ」
~~第一話・完~~
第二話はこちら(7/13(土)17時に公開予定)
第三話はこちら(7/14(日)17時に公開予定)