海の家_2(終)


「葬式ですか。」

殊勝な息子だ。先立った母を弔おうとしていたのか。だがそうなれば、ひとつ暗いざわつきを感じる。
「...遺体はまだここに?」
「いえ。海に ...沈めました。母は、自分が死んだときは海に投げ入れてくれと。」
「あぁ」
彼の母という、ぼんやりとした形をしたものが、ひとたびに見慣れたものに変わった。
「私もそう思う時がありました。忘れられないのです、己が故郷を。あの大地、あの家を。郷愁というには、文字通り大きすぎますが...。」
言い終わったあとに、彼の目に哀感の色が見えた。あ、と思った。彼は2世、母の見た光景をおそらく、二度と見ることは出来ない。
「しかし、そうであればお母様は幸せだったと思いますよ。葬儀などしなくても、十分だと思いますが。」気休めにもならないような事を言った。
「いえ、やりたいのです。母の時代の葬い方でなければならないような ...ただ、そんな気がするのです。須賀さん、お願いできますでしょうか?」
葬式は、死者を弔うだけでなく、先立たれた者たちの決別のための儀式だという。彼はそれを、意識的か無意識的か、理解しているのかもしれない。
私は一介の市民であった為、葬式の細かい作法や形式などは分からないが、彼の悲痛な頼みを断る通りもなく、二つ返事で承諾した。
どうにかなるだろう。


日はまだ傾いていない。
私主導の粗末な葬式は、1時間もせずに終わった。彼とあたりざわりのない話をしながら、出立の準備をしていると、お礼の品だと袋を持ってきた。「これは。」
この青一色の世界で、色鮮やかに光る金属製の筒。缶詰だ。
久方ぶりの文明の輝きに、食欲にあわせて視覚的な多幸感にあてられた。「いいんですか?こんな貴重なものを。これからここを出て、街へ行くんでしょう?」
「ええ、大丈夫です。この家のお陰で、食料には事欠かないので。」
思わぬところで僥倖にありついた。それにしても、彼は本当に礼節が叩き込まれているようである。


彼の家が見えなくなるところまできて、私の頭は思考を始めた。この衛生環境のなか、出産をするというのはかなりの危険性を伴う。生まれたこどもを成人まで育てきるというのは奇跡に近い事だ。よって一般的に、二世は食料としての役割を与えられがちである。
しかし彼の母親はそうではなさそうだ。老後の自分の守り手として、彼を育てたのだろうか?それにしてはリスクの高い手段だ。色々とあれこれと夢想したが、今日は道のりがながいので、"愛"の一文字で締める事にした。
こう暗澹とした世界には似つかわしくない、光りかがやく語を使う時は、いつでもこういう時だ。
彼のゆく先が、すこしでも明るくなるように。

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新月の夜。
海風に頬をなでられ、青年が目を覚ます。
横には麻を何枚か重ねただけの布団と、その奥には空いた扉があった。

母の姿がない。

扉の奥は虚空のような闇が広がっていたが、かすかに動くものがある。
外に出た瞬間、彼は叫んでいた。小さく丸まった老婆が、ゆっくりと腕を降り、水面に顔をうずめていく。
彼がその場へ向かう途中で、大きな飛沫の音が響いた。

彼は泳げない。
母も、泳げなかった。
"海に入る"という概念が、彼には存在しなかった。

彼は家の中から長い流木を持ち出し、水面に刺したが、握り返すものはいなかった。何度も、何度も、何度も流木を動かした。体の半分は水につかっても、まだ動かした。
水はただただ、彼の力を奪って行く。ついには流木から手をはなし、せめてもの思いで、うごめく波を凝視した。
そのとき、何かが見えた。
母ではない。

黒い、
黒い、
黒い塊の奥深く、


一対の光る目が、
こちらを見ていた。


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