【翠の料理人 第8話】3分で読める恋愛小説|青春物語|毎日21時更新
8. 新たな道
旅館での最後の日、私は荷物をまとめていた。
徳島での生活が終わろうとしていることを考えると、胸が締めつけられるような思いがした。
この場所で過ごした日々、一太と過ごした時間、すべてが大切な思い出になっている。
「楓ちゃん、もう帰るんだね」
早苗さんが私に声をかけた。
彼女はいつもの優しい笑顔で、私にお別れを言いに来てくれた。
「はい、本当にお世話になりました」
深々と頭を下げると、女将さんは私の肩を軽く叩いてくれた。
「またいつでも帰っておいで。この旅館は、あなたの家のようなものだから」
「ありがとうございます。また必ず戻ってきます」
そう言いながら、私はこの場所を離れる寂しさをかみしめた。だが、私にはもう一つ、大事なことを片付けなければならない。それは一太との別れだ。
一太はいつものように厨房で忙しくしていた。
彼の背中を見つめながら、私は心の中で何度も言葉を練り直した。
何を言えばいいのか、どんな気持ちを伝えればいいのか、悩んでいた。
「一太さん、今日で私、帰ります」
そう声をかけると、一太は手を止めてこちらを振り返った。
「そうか・・・」
彼は短くそう言うと、再び料理に集中し始めた。
まるで特別なことではないかのように。
私は少しだけ失望した。
もっと何か、彼の感情を感じたいと思っていたのかもしれない。
「…一太さんは、今後もここで料理を続けていくんですよね」
私の問いかけに、一太はしばらく沈黙した。
そして、鍋の火を止め、ゆっくりと私の方を向いた。
「俺はここで、料理を極めたい。いつか師匠を超える日が来るまで」
「でも…」
「でも?」
「お前がいなくなるのは、やっぱり寂しいな」
その言葉に、私の心が跳ねた。
彼は普段あまり感情を表に出さないが、この瞬間だけは本心が垣間見えた気がした。
「私も寂しいです。でも、仙台に戻っても、応援しています」
「楓、お前がここにいる間、俺にとって本当に大切な存在だった。お前がいなかったら、俺は今こんなに料理に真剣に向き合えていなかったかもしれない」
彼の言葉に、まるで包み込まれるように私の心が反応していた。
彼が私の存在を大切に思ってくれていることが、何よりも嬉しかった。
「…ありがとう、一太さん。私も、一太さんの夢を応援しています」
私はその言葉を伝えながら、心の中で決意を固めた。
この旅館、この場所、そして一太。
一度は離れるけれど、いつかきっと戻ってくる。
そしてその時は、一太の隣で、自分の夢も追いかけながら、彼を支える存在でありたい。
「また、帰ってきていいかな?」
私が尋ねると、一太は小さくうなずいた。
「もちろん。お前が帰る場所は、いつでもここにあるから」
仙台に戻った私は、新しい生活を始めながらも、徳島での日々を忘れることはなかった。
大学を卒業し、仕事も始めたが、心のどこかにいつも一太のことがあった。
数ヶ月が過ぎたある日、一太から一通の手紙が届いた。
それは、彼が今どれだけ料理に打ち込んでいるか、そして次の目標に向けて新しい挑戦を始めたという内容だった。
「俺もまだまだ成長している。お前も、自分の夢を追いかけてくれ」
その手紙には、一太らしい直球の言葉が並んでいた。
私はその手紙を読みながら、再び彼に会いたいという思いが強くなった。
季節は巡り、再び春が訪れた。
私は徳島に戻る決心をした。
一旦は離れたけれど、この土地に帰ってくることは、私にとって自然な選択だった。
旅館の前に立った私は、懐かしい風景とともに新たな決意を胸に秘めていた。
これからまた、一太とともに、夢を追いかけるための新しい生活が始まるのだ。
玄関の戸を開けると、そこには変わらない笑顔の早苗さん、そして一太が待っていた。
「帰ってきたか、楓」
一太のその言葉に、私は大きくうなずいた。
「ただいま、一太さん」