【翠の料理人 第2話】3分で読める恋愛小説|青春物語|毎日21時更新
2. 静かに流れる時間
翌朝、私はいつも通り旅館の掃除をしながら、昨日の一太の姿を思い出していた。
厨房で黙々と働く彼の姿には、どこか近寄りがたいものがある。
けれど、同時にその背中には何か隠されたものを感じてしまう。
なぜか彼のことが頭から離れなかった。
その日、女将の早苗さんが私にある仕事を頼んできた。
「楓ちゃん、一太君が商店街に行く用事があるから、一緒に荷物を運んでほしいの」
「えっ…、私がですか?」
突然のことに驚きつつ、私は少し緊張していた。
あの寡黙な一太と二人きりで出かけるなんて、何を話せばいいのか分からない。
「一太君、口数は少ないけどいい子だから心配いらないわよ」
と早苗さんは微笑む。
仕方なく私は、一太と一緒に商店街へ向かうことになった。
祖谷渓の狭い道を歩きながら、少しだけ気まずい沈黙が流れる。
彼は私に話しかける気配はなく、ただ前を向いて歩いている。
「一太さんって、料理人を目指しているんですか?」
私は沈黙が気まずくて、思い切って質問してみた。
「…うん」
と、彼は短く答えた。
その答えだけで終わってしまうかと思ったが、少ししてから続けて口を開いた。
「昔から料理が好きだった。自分の手で何かを作って、人に喜んでもらうのが楽しい」
その言葉に、少し驚いた。
寡黙で無表情な一太が、自分の思いを語るなんて意外だった。
そして、その言葉には真っ直ぐな情熱が感じられた。
「へぇ…素敵ですね。私も、旅が好きで、いろんな場所を見て回るのが夢なんです。今はまだアルバイトですけど、将来はここに住んで地元の人たちをサポートしたいなって思ってるんです」
私がそう言うと、一太は少しだけ顔をこちらに向けた。
ほんの一瞬だけだったが、彼の目が驚きと興味を含んでいたのが分かった。
「それ、いいね。…自分の夢を応援してくれる人がいると、頑張れるから」
それだけを言って、また一太は黙り込んだ。
でも、その一言には彼の中にある何かが見えた気がする。
彼は他人との関わりを避けているように見えて、実は誰かに支えられることを望んでいるのかもしれない。
商店街に着いた時、私たちは八百屋の山下誠司さんの店に立ち寄った。
誠司さんは旅館に野菜を卸している地元の八百屋さんで、早苗さんの幼馴染でもある。
彼は笑顔で私たちを迎えた。
「やぁ、一太君、楓ちゃん。今日は荷物がたくさんだから気をつけて持っていってくれよ」
「はい、ありがとうございます」
と私は挨拶し、一太と一緒に荷物を持ち上げた。
一太は、重い野菜の箱をいとも簡単に持ち上げる。
普段寡黙で控えめな彼だが、こうして力強く動く姿には少し頼もしさを感じた。
帰り道、私はまた話をしようと思ったが、特に話題が思い浮かばなかった。
けれど、一太と一緒に歩く時間は、意外と心地よいものだった。
彼の静かな存在感は、まるでこの祖谷渓の風景に溶け込んでいるようだった。
「一太さん、もしよかったら、今度一緒に料理を教えてもらえませんか?」
私は勇気を出して提案してみた。
「…うん、いいよ」
と、彼はまた短く答えた。
それでも、その一言が私を少し嬉しくさせた。
祖谷渓の美しい自然の中、私たちの静かな時間はゆっくりと流れていく。
不思議と、彼との距離が少しずつ縮まっていく予感がした。