【翠の料理人 第1話】3分で読める恋愛小説|青春物語|毎日21時更新
1. 旅館での出会い
徳島県の祖谷渓。
深い渓谷とその向こうに広がる青々とした山々は、私がこれまで住んでいた宮城の景色とは全く違う。
ここで働き始めて3日目、ようやく旅館の仕事にも慣れてきたけれど、どこか自分がこの地に馴染めていないような感覚があった。
「楓(かえで)ちゃん、お疲れ様。少し休んでおいで」
と、女将の木内早苗(さなえ)さんが微笑む。
早苗さんは旅館の女将として有名で、温かい笑顔が印象的な女性だ。
彼女がいるから、私も少しずつこの場所に馴染んでいるのかもしれない。
「ありがとうございます。じゃあ少しだけ」
と私は返事をして、控え室に向かう。
日差しが強い昼間とは違って、夕方になると少し涼しい風が吹き、祖谷渓の自然を感じることができる。
控え室の窓から見えるのは、静かな商店街。
小さな八百屋や、地元の特産品を売るお土産屋が数軒、軒を連ねている。
私が旅館で働き始めた理由は単純だった。
大学生最後の夏、何か新しいことをしたかった。
そして、亡くなったおじいちゃんの
「若いうちにたくさんの土地を見て回れ」
という言葉に背中を押された。
祖谷渓の景色に一目惚れして、この地にやってきた。
控え室で少し休んだ後、私は厨房の前を通りかかる。
そこでふと目に入ったのは、一人の青年が黙々と料理に取り組む姿だった。
彼の背中は大きくないけれど、その動きはきびきびとしていて、まるで周囲の音が消えたかのように静かだ。
目の前にある包丁と食材に全神経を集中させているようだった。
「近藤一太(いった)君よ。ここの厨房で見習いとして働いてるの。ちょっと無口だけど、料理には真剣に向き合ってるわ」
と、女将さんが耳打ちしてくれた。
「はぁ…」
私は短く返事をしつつ、その青年に目を向ける。
一太は誰とも目を合わせず、無言で次々と料理を仕上げていた。
その姿はどこか寂しさを感じさせるけど、同時に彼が料理に賭ける情熱も伝わってくる。
「楓ちゃん、配膳の手伝いお願いできる?」
と、女将さんが声をかけてくる。
「あ、はい!」
と気を取り直して私は厨房を後にした。
配膳中、私は一太のことがなぜか気になった。
あの集中力、あの寡黙さ・・・まるで誰にも心を開かないように見えた。
彼はなぜ料理人を目指しているのだろうか。
何か特別な理由があるのか、それともただの憧れなのか。
配膳が終わり、仕事がひと段落した私は、夜の商店街を散歩することにした。
日が沈んでからは商店街も静まり返り、店の明かりがぽつぽつと灯るだけ。
私の心も同じように落ち着く。
そんな静かな時間の中で、私はふと一太の姿を思い浮かべる。
彼の目に映る風景は、私が見ているものとは違うのだろうか。
吊り橋へと足を運び、水の流れる音を聞きながら、一太のことをもう少し知りたいという気持ちが湧き上がるのを感じた。
彼の背中には何か隠されたものがある・・・そんな妄想が、私の心を静かに掻き立てていた。