chapter3. 1973✈第4回国際航空宇宙ショー @入間
ノンフィクションです。
Nobさんと彫刻家先生と横浜みなとみらいの彫刻について書いています。
全6回予定のうちの今回はchapter3. です。とはいえ1篇ずつ読み切りで読めますので、どうぞ部分でもお楽しみくださいませ。
chapter3. は1973年秋(と1971年秋)のお話です。筆者学生時代に彫刻家最上(もがみ)先生ご本人に聞いた話をもとに書きました。
さてchapter3、今回の舞台はその昔若き二人が埼玉県入間(いるま)飛行場で一緒に見たエアショー
『1973年第4回国際航空宇宙ショー』です。
国際航空宇宙ショー、とても賑やかな大きなイベントだったようです!
行った方も行かれなかった方も当時のお祭り感、わくわく感を楽しんでいただければと思います。
私筆者は生まれる前です。
出来うる限り当時の空気感を再現すべく、当時販売されたカタログパンフレットや行かれた方撮影の記録映像、ブログ等資料を集め参照しながら書かせていただきました。
…是非行きたかった…!
①
↑・今回の教科書①
YouTube「1973年国際航空宇宙ショー 疾風の飛行」(注・はやて、と読みます)
②
↑・今回の教科書②
開催時カタログパンフレット「'73年国際航空宇宙ショー」
③
↑・今回の教科書③
翌年販売冊子 付録ソノシート付「ヒコーキ爆音と写真 ソノシート '73年国際航空宇宙ショーから」
この国際航空宇宙ショー、現在では「国際航空宇宙展」として形を変え東京ビッグサイトで定期開催されています。
いやこんな時代もあったんですねえ…(@_@;)
そしてそこで若き二人が見た景色とは。
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chapter3. 1973✈第4回国際航空宇宙ショー @入間
ネタばらしをする。
ずいぶん昔、最上先生はNobさんといっしょに埼玉県にある入間(いるま)基地(=入間飛行場)でエアショーを見たのである。
年はひと回り最上先生が上。Nobさんは入間基地周りにとても詳しいから、案内役には適任だ。
1973年(昭和48年) 10月5日~11日 第4回国際航空宇宙ショー
これ。
航空祭ではない。
国際的なエアトレードショー(見本市)が日本で開催されたのだ。外国機も多数参加。そしてそこに民間・軍用の別はない。
四式疾風が飛んだ。
ヘリコプターが宙返りした。
ロールスロイス社による大きなエンジン展示などもあり、この「航空宇宙ショー」が国際トレードショーであったことがよくわかる。
このショーの時の貴重な映像では疾風の飛行時エンジン音も確認することができる。
航空宇宙ショーの雰囲気がとてもわかるので是非「1973年国際航空宇宙ショー 疾風の飛行」YouTube検索してみて欲しい。
ブルーインパルスは、F-86F時代。
ハチロクブルーのカラースモークが入間の空を華麗に舞った。ずいぶん昔の話だ。
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出会い
ちなみに1973年入間で一緒にエアショーを見た最上先生とNobさん、出会いはその2年前に遡る。
二人は最初米軍横田基地外柵で出会ったそうだ。(と最上先生に聞いた。)
1971年秋、ブルーエンジェルス(米海軍のディスプレイチーム)来日の時のことである。
もしかしてひょっとしたら横田に来たりしてと思って二人ともそれぞれで横田外柵を訪れていた。
待ってはみたが残念ながら横田には来なかった。
それで二人は話してみたところ帰り道が一緒だったので西武拝島線の拝島駅から西武線に乗って電車内でもお喋りしながら途中まで一緒に帰った。
武蔵野美術大学鷹の台キャンパスの最寄り駅は西武国分寺線の鷹の台駅である。
ちなみに最上先生が武蔵美共通彫塑非常勤講師の任に就いたのはこの後'71年12月。
この'71年秋はその用事で大学に出入りがあったようだ。で、ついでにと横田まで足をのばしてみたと。
最上先生はまだ熱海に居を構えていない。
一方のNobさんはというと、'71年9月に雑誌『航空情報』編集部に自作を売り込み好感触を得たすぐ後の時期にあたる。これからいよいよという駆け出しイラストレーターだ。
無名の頃には自筆のサイン「Nob」がNo.6と間違われた…という逸話は、最上先生からも私は聞いている。
Nob「本当は小牧まで仕事で行きたいんだけどまだなかなかね!他のイラスト依頼決まったところだし放ってまではね〜ファントム以外も描かなきゃ!でもブルーズ、見たい!」
この頃はもちろんSNSはなく、飛来機の情報収集としては航空無線を聞くにも家に据え置き型のものを持っている人はいたものの、広くハンディタイプの機械が普及するのはこの後の時代になるかもしれない。
だからこの頃にお目当ての航空機に出会う一番の方法は必然こうなる。
…というのが定石なのだった。
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1973年
1973年第4回国際航空宇宙ショー(入間)に話を戻そう。
ショーを見終わって、Nobさんは帰りは西武池袋線入間市駅へ最上先生を案内した。(旧豊岡町駅だがこの数年前に「入間市駅」に改称されたばかり。)
少々歩くが混雑を避け最上先生たちが電車で座れるようにとの配慮だ。
'73年なので最上先生は熱海に自居アトリエを構えている。
二人は飛行場でNobさんの仲間たちと会ってここまで行動を共にしている。
最上先生はお喋り好きな向きだと思うが、Nobさんをはじめ彼ら当時の航空マニアもお喋りが達者な人が多い。先ほど(マニアのお作法)のところで述べたようなことでこれは「情報交換・情報収集」の意味合いもあり、活発な交流もマニアの嗜みなのである。
そういうわけでこの帰り道(修武台記念館のあたり←イマココ)に来るまでに彼らはすっかり打ち解けていた。
この時、二人と仲間たちの間でこんな話になった。
「Nobがな、『機体の慰霊碑』作れないかって言い出したんだ。でもいい案が出なくてな。アンタならどうやる?」
餅は餅屋、彫刻は彫刻家に相談してみよう…我らがNob先生は「でも自分はイラストレーターだから…」と言うわけさ…
仮にこれを「モニュメント(仮)」としておこう。
…これが後に横浜みなとみらいの作品になってしまう前身の構想となるのであった…。
(→chapter4. へ続く)
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