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chapter3. 1973✈第4回国際航空宇宙ショー @入間

ノンフィクションです。

Nobさんと彫刻家先生と横浜みなとみらいの彫刻について書いています。

全6回予定のうちの今回はchapter3. です。とはいえ1篇ずつ読み切りで読めますので、どうぞ部分でもお楽しみくださいませ。

chapter3. は1973年秋(と1971年秋)のお話です。筆者学生時代に彫刻家最上(もがみ)先生ご本人に聞いた話をもとに書きました。

前回までのあらすじ
     
(まだ人物紹介しかしていない)

chapter1. …横浜みなとみらいの彫刻と作者先生の紹介。
最上壽之(もがみひさゆき)先生。武蔵野美術大学彫刻科の教授をしていた。

今回のお話'73年時の役職は、武蔵野美術大学共通彫塑教室非常勤講師。
(注・共通彫塑…武蔵美では学部彫刻科のほか、デザイン科や短大部等他科にも基礎として立体彫塑に触れる授業があり、指導を共通彫塑教室が担当していた。彫刻科とは別。)

chapter2. …Nob(ノブ)さんの紹介。
下田信夫(しもだのぶお)画伯。航空界隈では有名なイラストレーター。マニアの重鎮。

今回のお話の'73年時は注目の新進イラストレーターとして『航空情報』別冊、増刊から知名度を上げていた頃。
翌年創刊する(Nobさんも活躍した)伝説の雑誌『航空ジャーナル』前夜だ。

Intermission. …読書感想。と見せかけてNobさんの紹介。
そんな調子で〜chapter6. まで予定しています。

さてchapter3、今回の舞台はその昔若き二人が埼玉県入間(いるま)飛行場で一緒に見たエアショー
『1973年第4回国際航空宇宙ショー』です。

万博っぽいのかな
(教科書①より)

国際航空宇宙ショー、とても賑やかな大きなイベントだったようです!
行った方も行かれなかった方も当時のお祭り感、わくわく感を楽しんでいただければと思います。

1973年第4回は 7日間開催60万9000人来場
参加8か国119団体 飛行演技のべ421機

航空祭の比ではない国際的ビッグイベント!
(写真は教科書③より)

私筆者は生まれる前です。
出来うる限り当時の空気感を再現すべく、当時販売されたカタログパンフレットや行かれた方撮影の記録映像、ブログ等資料を集め参照しながら書かせていただきました。
…是非行きたかった…!

↑・今回の教科書①
YouTube「1973年国際航空宇宙ショー 疾風の飛行」(注・はやて、と読みます)

内容は次世代の少年少女たちを意識し
航空史を網羅した力作

表紙絵カッコイイ

↑・今回の教科書②
開催時カタログパンフレット「'73年国際航空宇宙ショー」

広告も良いよね

内容は第4回の記録として充実
第5回へ向けての広告宣伝の意味もあったろう

表紙はこの回を象徴するショット
ソ連の特大輸送機とセイバーブルーインパルスの
夢のコラボレーション

↑・今回の教科書③
翌年販売冊子 付録ソノシート付「ヒコーキ爆音と写真 ソノシート '73年国際航空宇宙ショーから」

この国際航空宇宙ショー、現在では「国際航空宇宙展」として形を変え東京ビッグサイトで定期開催されています。

いやこんな時代もあったんですねえ…(@_@;)

ソ連の人工衛星
(教科書③より)
上段、ホーカー・シドレー ニムロッド(英)
ニムロドー!?
(教科書③より)

そしてそこで若き二人が見た景色とは。



chapter3. 1973✈第4回国際航空宇宙ショー @入間

ネタばらしをする。

ずいぶん昔、最上先生はNobさんといっしょに埼玉県にある入間(いるま)基地(=入間飛行場)でエアショーを見たのである。

年はひと回り最上先生が上。Nobさんは入間基地周りにとても詳しいから、案内役には適任だ。

1973年(昭和48年) 10月5日~11日 第4回国際航空宇宙ショー

5日(金)は関係者のプレ公開
一般公開が6日(土)〜11日(木)だろう

チケットは両端切り、2日間使える仕様

これ。
航空祭ではない
国際的エアトレードショー(見本市)が日本で開催されたのだ。外国機も多数参加。そしてそこに民間・軍用の別はない。

四式疾風が飛んだ。

ヘリコプターが宙返りした。

(↓動画 00:52〜01:14)
(教科書③より)上の4機編隊のうち後続3機
つまり3機種全部宙返りできる
むしろ「宙返りできるの欲しい!」って入れたかも
多分会期後に雑誌等で改めてお披露目された
カラーリング後の姿か
(教科書③より)

ロールスロイス社による大きなエンジン展示などもあり、この「航空宇宙ショー」が国際トレードショーであったことがよくわかる。

戦後初の国産旅客機YS-11も
エンジンは英ロールスロイス社製

そんなことより
この展示の距離感よ

四式疾風…「はやて」と読む。
陸軍四式戦、試作名称ではキ84と呼ばれる大戦期の日本の戦闘機。海外に残った貴重な機体がレストアされ日本への里帰りを記念してこの時飛んだ。
この入間の他、栃木県宇都宮で飛んで以降飛行の記録はない。
この「疾風一型甲1446号機」は数奇な運命を経て現在は鹿児島県知覧で機体の科学的調査を進められている。
別機の疾風のものかと思われる部品は山梨県にある河口湖自動車博物館に存在するものの、現存する疾風は入間で飛び知覧で羽を休めるこの機ただ一機である。

このショーの時の貴重な映像では疾風の飛行時エンジン音も確認することができる。
航空宇宙ショーの雰囲気がとてもわかるので是非「1973年国際航空宇宙ショー 疾風の飛行」YouTube検索してみて欲しい。


ブルーインパルスは、F-86F時代。

いやちょっと待って
右ページも気になるよね
あと下のお土産
(教科書③より)

・F-86F…通称ハチロク。もとはセイバーという愛称だったようだが空自では皆ハチロクと呼んでいた。
航空自衛隊ブルーインパルス初代使用機種である。静岡県浜松基地をホームベースにしていた。
1964年東京オリンピック開会式で東京上空に五輪を描いたことで知られている。

ハチロクブルーのカラースモークが入間の空を華麗に舞った。ずいぶん昔の話だ。

\撮影位置ドンピシャ!/

きっと旧管制塔のところだ
Nobさんは毎年そこにいた

気持ちは何ひとつ変わらずに
撮影者とNobさんと最上先生といた
あの1973年のままで
ネットに上げてくださった先輩諸氏へ
この場を借りて
厚く御礼申し上げます

本当にありがとうございました



出会い
ちなみに1973年入間で一緒にエアショーを見た最上先生とNobさん、出会いはその2年前に遡る。
二人は最初米軍横田基地外柵で出会ったそうだ。(と最上先生に聞いた。)

入間、横田、武蔵美の位置関係

横田の場所はGoogleでは瑞穂で出てくるが
東京都福生市を始め5市1町を跨いでいる

1971年秋、ブルーエンジェルス(米海軍のディスプレイチーム)来日の時のことである。

もしかしてひょっとしたら横田に来たりしてと思って二人ともそれぞれで横田外柵を訪れていた。
待ってはみたが残念ながら横田には来なかった。

・ブルーエンジェルス…'71年秋、愛知県小牧基地(名古屋飛行場)で開催された第3国際航空宇宙ショーの為来日。当時の使用機はF-4JファントムII。ショートノーズであるのが特徴的。
小牧と青森県三沢には飛来した模様。

そしてそれ以降、現在に至るまで一度も来日していない。

(教科書②より)

それで二人は話してみたところ帰り道が一緒だったので西武拝島線の拝島駅から西武線に乗って電車内でもお喋りしながら途中まで一緒に帰った。

武蔵野美術大学鷹の台キャンパスの最寄り駅は西武国分寺線の鷹の台駅である。

西武線users

ちなみに最上先生が武蔵美共通彫塑非常勤講師の任に就いたのはこの後'71年12月。
この'71年秋はその用事で大学に出入りがあったようだ。で、ついでにと横田まで足をのばしてみたと。
最上先生はまだ熱海に居を構えていない。

最上先生はその春'71年4月から多摩美術大学美術学部グラフィック科の非常勤講師をしている。12月から武蔵美と掛け持ち、つまりそれまでは自由になる時間にやや余裕があったのだそう。
ブルーエンジェルス来日、多摩美のほうで詳しい人(学生?)から聞いて興味を持ったようだった。

一方のNobさんはというと、'71年9月に雑誌『航空情報』編集部に自作を売り込み好感触を得たすぐ後の時期にあたる。これからいよいよという駆け出しイラストレーターだ。

無名の頃には自筆のサイン「Nob」がNo.6と間違われた…という逸話は、最上先生からも私は聞いている。

Nob「本当は小牧まで仕事で行きたいんだけどまだなかなかね!他のイラスト依頼決まったところだし放ってまではね〜ファントム以外も描かなきゃ!でもブルーズ、見たい!」

そしてこの時の鬱憤を晴らすべく…なのか…
この後各地に遠征、体験搭乗、海外エアショー等Nobさんが行って描く「ルポもの」
という新スタイルを開拓し
好評連載へ

旅費を払ってもお釣りが来そうだ

絵は『Nobさんの航空縮尺イラストグラフィティ
エトセトラ編』下田信夫著(大日本絵画)より

この頃はもちろんSNSはなく、飛来機の情報収集としては航空無線を聞くにも家に据え置き型のものを持っている人はいたものの、広くハンディタイプの機械が普及するのはこの後の時代になるかもしれない。

文明の利器
まだない

だからこの頃にお目当ての航空機に出会う一番の方法は必然こうなる。

マニアのお作法
①航空雑誌に寄せられた過去の飛来機情報を参考にしながら出来得る限り通える外柵に足繁く通い、
②双眼鏡でバードウォッチングでもしながらやはり同じように通って来た人と情報交換し、
③皆でのんびり根気よくひたすら釣果を待つ

…というのが定石なのだった。

特に軍用機マニアはのんきと根気だと
私は思っている



1973年
1973年第4回国際航空宇宙ショー(入間)に話を戻そう。

ショーを見終わって、Nobさんは帰りは西武池袋線入間市駅へ最上先生を案内した。(旧豊岡町駅だがこの数年前に「入間市駅」に改称されたばかり。)

入間市駅含めると入間外柵最寄り駅5つですね

少々歩くが混雑を避け最上先生たちが電車で座れるようにとの配慮だ。
'73年なので最上先生は熱海に自居アトリエを構えている。
二人は飛行場でNobさんの仲間たちと会ってここまで行動を共にしている。

最上先生はお喋り好きな向きだと思うが、Nobさんをはじめ彼ら当時の航空マニアもお喋りが達者な人が多い。先ほど(マニアのお作法)のところで述べたようなことでこれは「情報交換・情報収集」の意味合いもあり、活発な交流もマニアの嗜みなのである。

そういうわけでこの帰り道(修武台記念館のあたり←イマココ)に来るまでに彼らはすっかり打ち解けていた。

この時、二人と仲間たちの間でこんな話になった。

「Nobがな、『機体の慰霊碑』作れないかって言い出したんだ。でもいい案が出なくてな。アンタならどうやる?」

餅は餅屋、彫刻は彫刻家に相談してみよう…我らがNob先生は「でも自分はイラストレーターだから…」と言うわけさ…


仮にこれを「モニュメント(仮)」としておこう。

…これが後に横浜みなとみらいの作品になってしまう前身の構想となるのであった…。

(→chapter4. へ続く)


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