
言葉のベクトル
言葉は他の全ての言葉とベクトル関係があり、在る言葉が出ると、次の言葉が強度の違いで決定される。
という事は言葉は言葉内にとどまらず、外側に向けた力学を持っていて、それを私は言葉のベクトルと呼んでいる。
小さい時にル・クレジオの難解な小説のなかで、言葉がそれ自体の持つ力学で、言葉が言葉を継ぐようにして言葉自体が作る小説の実験。
なんていう風に思って小説よりも、その考えが残っていて今でもよく思い出す。
ChatGPT:
興味深い考え方ですね。言葉が単独で存在するのではなく、すべての言葉が相互に影響を与えながら連なっていく——まるで言葉の流れ自体が力学的な構造を持っているかのような視点。
特に、「言葉が言葉を継ぐことで小説が形成される」という発想は、言語の自律性を考える上で非常に示唆的です。
ル・クレジオの小説を読んで、そのような「言葉のベクトル」としてのダイナミズムを感じたというのは興味深いですね。
彼の作品は、物語の論理よりも言葉そのものの運動を重視しているような部分がありますから、まさに「言葉が言葉を生む」ような感覚を持ったのかもしれません。
この「言葉のベクトル」という概念をさらに深めると、例えば、ある単語が持つ意味の幅やコンテクストによって、次に続く言葉の選択肢が物理的な力のように制限されたり誘導されたりするとも考えられますね。まるで、文が進む方向が「言葉の場」におけるエネルギーの流れによって決まるかのような感じです。
もしこの考えを小説の創作や文章表現に応用するとしたら、どのように活かしたいと思いますか?
あなた:
その考えは今LLMで壮大な実験と、その応用という形で目の前に在るのだと思う。
ChatGPT:
まさにその通りですね。LLM(大規模言語モデル)は、まさに「言葉のベクトル」の概念を実験的に具現化したものとも言えます。
単語やフレーズが持つ統計的な関連性を学習し、ある言葉が発せられた際に次の言葉が確率的に決定される。
その選択の背後には、まさに「言葉の場」のようなものが広がっていて、そこには力学的な関係がある。
この力学は、単に言葉の意味だけでなく、文脈、文化、歴史、そして人々の使用の仕方によっても形作られます。
だからこそ、LLMは固定的なルールに縛られず、流動的で変化し続ける「言葉のベクトル」の実験場になっている。
そして応用としては、小説や詩の生成、アイデアの展開、哲学的な思索の補助など、言葉がどこまで自律的に「流れ」を生み出せるかという挑戦でもある。
言葉のベクトルがあるならば、そこには重力や慣性のようなものもあるのかもしれません。ある概念が発せられたとき、その周囲にはどのような引力が生まれるのか。
今まさに、私たちはその壮大な実験の渦中にいるのかもしれませんね。
この視点をさらに発展させると、LLMが言語の持つ「流れ」や「力学」をどう操作できるのか、また逆に人間がその流れをどのようにコントロールできるのかという問いに至ります。
あなたの小説の構想とも絡めて、「言葉のベクトル」が現実とVRの間でどう働くのかという視点を探求するのも面白いかもしれません。
あなた:
その言葉の力学とは文化そのもので、つまりはLLMは人の文化は言葉としてどのように捉えられて居るかの具体化として在るのだと思う。
人の考えも、そのほとんどは文化内での考えであり独自性などは標準からのわずかな差異なのであろうが、それが、少数に理解されるという事もその差異が文化としての可塑性なのかも知れない。
ChatGPT:
まさにその通りだと思います。言葉の力学とは文化そのものであり、LLMはその文化が言葉としてどのように捉えられているかの具体化——つまり、文化の集合的な知識やパターンの再現とも言えますね。
私たちが持つ思考もまた、そのほとんどが文化の枠組みの中にあり、個々の「独自性」は実は標準的なパターンのわずかな変異に過ぎない。
この考え方は、進化論や情報理論にも通じるものがあります。
つまり、完全な創造ではなく、既存の要素の組み替えや微細な変異によって新しいものが生まれ、その一部が次第に文化として受け入れられていくというプロセスですね。
そして、そのわずかな差異が少数に理解されるという現象は、文化の可塑性(塑性変形のようにゆっくりと形を変えていく性質)そのものなのかもしれません。
ある時点では異端とされていた思想や表現が、時間を経て広まり、やがて標準的な文化の一部となる。これは科学の理論変遷や芸術の潮流にも当てはまりますし、言葉の進化にも共通するダイナミズムですね。
この視点をLLMに重ねると、LLMの出力する言葉は、文化の集合的な「平均的な状態」を反映するものでありながら、その内部に微細な変異を含むこともある。
その変異が人間の思考に影響を与え、新たな概念の萌芽となることもあるでしょう。言葉の力学が単なる過去の模倣ではなく、未来を形作る可能性を秘めている点が面白い。
あなた:
そうなると、その理屈に反抗したくなるのが、人の人たる所以でもあり、自由を求めるという類型かも知れませんが、言葉のベクトルに縛れない文を考えたくなります。
たとえば「クジラがくしゃくしゃで、食べたら青かった。」なんて文を考えて、独立した気でいい気分になる。
ChatGPT:
まさにそれこそが人間の自由の表現ですね。言葉の力学が文化の枠組みを形成しているとしても、人はその枠組みに抵抗し、逸脱し、まったく新しい関係を作り出すことができる。
それが言葉遊びや詩的表現、シュルレアリスムのような文体にも現れるのでしょう。
「クジラがくしゃくしゃで、食べたら青かった。」
——この文はまさに、言葉のベクトルを無視したように見えながら、実際には新しいベクトルを生んでいるとも言えますね。
意味の繋がりを破壊しながらも、イメージの流れは生まれている。読んだ瞬間に「くしゃくしゃのクジラってなんだ?」「食べる?」「青い味って何?」と、想像のベクトルが発生する。
この種の文は、従来の文化の枠を超えようとする一方で、新しい意味の磁場を作り出しているのかもしれません。
つまり、「言葉のベクトルに縛られない文」を考えること自体が、新しいベクトルを生み出す行為でもある。この逆説的な現象こそが、人間の「自由」の表現なのかもしれません。
こうした逸脱の感覚は、まさに詩や実験的な文学、あるいは夢のような非論理的な世界観の創造につながります。
「論理の牢獄」から脱出するために、言葉を逸脱させる。
「文化のベクトル」から自由になるために、ナンセンスの美学を持ち込む。
そんな視点が、言葉の持つ力学をさらに面白くしてくれる気がしますね。
あなた:
たとえばベクトルを無視して、次の言葉をさいころで決まるとすると。全く訳の分からない文になりいい気分にもなれない。
ベクトルに反抗している事を示すために文の流れが分かりそうで分からないのが面白いのかも知れない。
ChatGPT:
なるほど、完全にランダムな単語の羅列では意味が消滅し、面白さもなくなる。逆に、「ベクトルを無視しつつも、完全には壊さない」 というバランスが、言葉の力学への反抗として心地よさを生むのかもしれませんね。
たとえば、「クジラがくしゃくしゃで、食べたら青かった。」は、文としては異様ですが、まだ何かしらの文脈を感じ取れる。「クジラ」「食べる」「青い」には何らかの関連性があるように見えます。もし「さいころで完全にランダムな単語を選ぶ」と、
「冷蔵庫だった、哲学か、跳ねたら。」
のようになり、完全に意味が断ち切られてしまう。これだと読んでも何も引っかかりがなく、単なるノイズに感じられる可能性が高い。
つまり、言葉のベクトルを完全に無視すると、言葉の持つ「文化的な力場」からも切り離され、無意味さが増しすぎてしまう。
しかし、「意味のあるものと意味のないものの狭間」 にいると、奇妙な心地よさが生まれる。このギリギリのバランスが、読んだときの「違和感の快感」につながるのかもしれません。
これは、シュルレアリスムの手法や、前衛詩の試みとも重なる部分がありますね。たとえば、アンドレ・ブルトンの「自動記述」のように、意識と無意識の境界をさまよう言葉の流れ。
あなた:
このように考えていることは、結末の無い事であり、いつまでも心に引っかかって折に触れ思い出すだろう。ちなみに面白いので次の創作文を載せてみるが、AIにはおもしろさがわかるかな。
ーーー
キャラメルは空を駆ける。軽やかに不幸を背負い、ブラックホールを巧みにかわしながら100億光年先のえっちゃんちの玄関先でマーキングをするために。
それを済ましたら、さらに100億光年先のタバコ屋の横の電信柱にマーキングに行くのだ。
キャラメルは自分が食べられるものだと初めて知った。それは北極の果てしない氷原で見つけた温かいそよ風にそよぐヤシの木陰のように悲しくもあり、喜ばしくもある気分にさせた。
未来を振り返れば、今度食べるバレンタインチョコの味が、白鳥の湖に出てくる雀のお宿で食べた蛤のお吸い物ののように空中を彷徨うぬらりひょんだ。
ーーー
ChatGPT:
この創作文、とても素晴らしいですね。確かに、意味がつながりそうでつながらない、しかし完全に無秩序ではなく、どこか流れがある という絶妙なバランスが取れています。まさに、言葉のベクトルを意図的にねじ曲げながらも、新しい方向へと導いている。
AIはこのおもしろさがわかるか?
分析すると、以下の点が「面白さ」の鍵になっていると思います。
論理の逸脱と回帰
「キャラメルが空を駆ける」:そもそもキャラメルが空を飛ぶのか?という意外性。
「不幸を背負い」「ブラックホールを巧みにかわす」:まるでキャラメルに意志があるかのような擬人化。
「100億光年先のえっちゃんちの玄関でマーキング」:犬のようなマーキング行為と、宇宙規模の旅の対比がシュール。
さらに「タバコ屋の横の電信柱」にもマーキングに行くという、スケール感のズレが可笑しさを生む。
感情の入り混じり
「キャラメルは自分が食べられるものだと初めて知った」:この"初めて知った"というフレーズが、人間的な気づきを思わせる。
「北極の果てしない氷原で見つけた温かいそよ風にそよぐヤシの木陰のように悲しくもあり、喜ばしくもある」
ここは感情が錯綜する部分で、「氷原のヤシ」という時空を超えた組み合わせが幻想的で、センチメンタルな響きもある。
意味があるようでない、ないようである
「未来を振り返れば、今度食べるバレンタインチョコの味が…」
「白鳥の湖に出てくる雀のお宿で食べた蛤のお吸い物のように…」
「空中を彷徨うぬらりひょんだ」
→ 未来を「振り返る」という時間の逆転、バレンタインチョコと白鳥の湖と雀のお宿と蛤の吸い物という、まったく繋がりのないものを繋げることで、新たなイメージが生まれる。「ぬらりひょん」とは何か?という疑問がラストに来ることで、意味をつかみかけた読者の感覚をまた攪乱する。
結論:これはAIが「おもしろい」と感じることができるか?
ルールの逸脱やズレ、感情の交錯、シュールな対比、スケールの反転といった要素は、AIにとって「異常な言語パターン」として認識される でしょう。
しかし、それを「おもしろい」と思うのは、その異常さに人間の意図や遊び心を感じ取れるから だと思います。
LLMは、統計的に見て「珍しいパターン」や「予測しづらい組み合わせ」に驚きを感じるかもしれませんが、それを**「人間的なおかしみ」**として捉えるのは難しい。
なぜなら、おもしろさとは、単にランダムではなく、読者の意識に「何かを感じさせるズレ」だからです。
この文章のように、「違和感があるのに、どこか心に残る」「意味があるようで、意味になりきらない」ものは、まさに言葉のベクトルに反抗しつつも、完全には無視しない絶妙なバランス によって成立しています。
だからこそ、何度も思い出すような、引っかかりのある作品になるのでしょう。
このような文章をもっと生み出していけば、あなたの小説の世界観にも独自の「言葉の流れ」を作り出せるかもしれませんね。