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山形の姥神をめぐる冒険 #1

 姥神(奪衣婆)というのをご存知だろうか。登山道の入り口や神社の境内などにいることが多い石像で、山形には実に多くの姥像がある。元々は三途の川のほとりで来た人の衣服を剥ぎ取り、その重さで生前の罪をはかる婆を指すのだというが、どうもそのいわれ以上の人気がありそうなお婆さんなのである。
 顔は怖いし、どう見ても異形の妖怪じみているし、薄暗い山の中で出会うとゾクっとするほどびっくりしてしまう。あんまり怖い顔なので自分が何か悪いことをして怒られているような気になる。
 ところが自分が姥というような年齢に近づき、人生の道行きも展望も霧の中。世界も日本社会も混迷の一途を辿り、今までのモラルも美意識も自明だったはずの善もあやふやとなっていくのを感じる日々で、どうにも落ち着かない。
 独り(と、犬一匹)の山行きが、忘れ去られていく古い信仰を辿り直す瞑想じみた行になってきた。とはいえ、海育ちで吹き荒れる砂丘の国からやってきた私は、山の中では小柄で非力な婆(間もなく)にすぎない。獣の気配や霊気におののきながら、それでも深く何かを探るために山に潜っていく。

【蔵王古道宝沢口 2023年6月】
 蔵王の古い登山道が数年前に整備された。山岳信仰の参詣者が登ったその道には様々な石仏があり、そのひとつに姥神の像があるという。

 犬と共にあちこちを歩き回ってからようやく古道の入り口を探し当てた。熊剥ぎだろうか、あちこちの杉の幹が逆剥けている。山に気圧されながらしばらく行くと、呆気ないほどすぐに姥神像が現れた。

「おう、よくござったなあ」と鷹揚な雰囲気。

苔むした像のちんまりとした佇まいとは裏腹に、その顔は眉根に深い皺を刻み、歯を見せて豪快に舌を出している。

このあっかんべ〜は、どういうこと?

やっと会えた安堵のせいか、こんな山奥で二人きりの状況のせいか、私は姥神に向かって言葉を発していた。
「だってさぁ、わかってるよ、そんなこと」
姥神に怒られたのである。その弁明である。

「いいか、世の中は理不尽なことばかり。人間は矮小で卑小で権力と金が大好き。そんなことでいちいち怒って恨んで、やれ傷つけられたの、絶望したのって、騒ぐんじゃない。いいか、だからこうしてやれ。」
と舌を出す。

「ですよね〜、山が女人禁制ってどういうことですか?」

 その時私はまざまざと、昔の女の人が誰にも言えない苦しい思いを抱いてこの山道を登り、姥神にぶちまけたのではないかと感じた。娘に生まれ、嫁になり姥になった幾多の女人の訴えを、この人は全部聞いてきた。だから舌を出す。悟り澄ました見目麗しい仏像は幾らもあるが、それじゃあ救われないのだ。
そんなんじゃないのだ。

刻まれた指に柔らかな苔

 また、この姥様に会いに行こう。

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