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山形の姥神をめぐる冒険 読書編 #16

『万物の黎明』                         デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ 酒井隆史訳 光文社 2023年

 何かを根源的に考えてみたい時、定石のようにスタート地点に置かれるもの。
それは、人類は本来無邪気で無垢であり、平和で平等な生き物であるというルソー的見解と、人類は野放しにすると弱肉強食に争い合う利己的な生き物であるというホッブズ的見解である。
 また別の定石はヨーロッパに発した文明は新大陸の野蛮な未開人を征服し、法律や税制度を整え、新国家の樹立という偉業を成し遂げたというもの。あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチやエジソンなどの天才的な発明家によって科学の進歩が加速した、というようなスタート地点もあるだろう。エジソンが偉い人なのは常識だという歌もあったっけ。

 今、弱肉強食の生存競争の時代に突入しつつあるかのような世界の様相である。文学もアニメもアートもそのベクトルに抗い、上記にあげた定石を崩そうとする試みを続けているように感じる。本書もその画期的な試みのひとつだ。20年くらい前ならば〝世界の終わり〟を何となく待ちながら破滅を考えることは、ある意味楽しいことでもあった。しかし今、破滅の予感が待ったなしになってきた。だからこそ終焉ではなく黎明を題したこの本に希望を見出したくて手に取った人は少なくないはずだ。

 600ページを越える本書のわかりやすい概要は巻末の訳者による明瞭で熱い解説を一読することをおすすめする。私が敢えて本書を紹介するのは、人類が歴史上魅力的な文化共同体を作ったことがあること。夢のように軽やかで美と調和を感じる創造的な社会が実在したことをピックアップしたいからだ。

 ひとつめは第6章の「アドニスの庭」。遊戯農耕という耳慣れない言葉が出てくるが、私はそれをアボカドの種を捨てきれずについ水栽培してしまうような発想と読んだ。庭に捨てられた種がジャックの豆の木のようなミラクルを生み出すとか、あるいは腐海の植物を胞子から試験管栽培したナウシカのような観察と実験の繰り返し。
 気まぐれで遊び心あふれるPLAYが植物の薬効と毒性の科学的な知識の獲得にもつながっていく。加えて植物の繊維を利用した工芸品、織物などは数学的・幾何学的な知識が必要とされた。それは何世代にも渡って少しづつ受け継がれてゆき、そのような営みは特に女性が担っていたこと。
 近代になって博物学的アプローチから植物の分類や支配の方法が明らかにされて、それを〝科学的進歩〟であると思い込んでいたが、新石器時代の科学者たちは現実的なアプローチから感覚的・直感的に科学的認識というものを獲得していたのである。女性と科学の親和性がここで示されている。

 もうひとつは、古代ギリシャクレタ島にあったというミノア文明だ。ミノア宮殿の遺跡には女性の政治的優位性を示す絵画が描かれ、戦いを表すようなイメージは見つからない非武装の宮殿だった。近隣にはシリア、レバノン、エジプトなどの高度に家父長制的な社会があるのに、なぜこのような社会が成立したのか。クレタ島では何が起こっていたのか。
 ミノアの芸術から読み取れるのは融合的な自然とエロティックでスピリチュアルな〝戯れ人〟の姿である。突出した英雄はどこにもいない。個人を超えた宇宙的つながりが力強く優美に広がっているのだという。

 どうだろう、本当にそんな社会があったと信じられるだろうか。著者の一人であるウェングロウは考古学者である。考古学におけるテクノロジーの進歩が生み出す科学的知見も見逃せない。古代のDNA解析ができるようになったことで神話的幻想が根拠のある事実に塗り替えられていく。


 私たちは成長し続けなければ死んでしまうのだろうか?
 環境を破壊し続けなければ生きていけないのだろうか?
 自分の身は自分で守らなければ野たれ死にしてしまうのだろうか?

 戦争、侵略、搾取、家父長制からヒエラルキーと支配と暴力という、とても抗えないような一方方向の流れがある。他方で相互扶助、社会的協働、市民的活動、歓待(ホスピタリティ)、ケアという円環をなす流れがある。それはかつてあったし、今も遍在している。
 アボカドの種を植えるように夢見がちな試みをこの先の未来に託すのは、ふざけすぎているだろうか?心の中の自由な空き地を広げていくにはどうしたらいいだろうか。
 孤独な散歩者の夢想は続く。


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