山形の姥神をめぐる冒険 #8
【石倉不動尊】天童市山元 2023年9月
表題の写真を見ると、一体どこの深山幽谷にある姥神像なのだろうと思われるかもしれない。ここは山寺立石寺のちょうど裏側にある山間の不動尊だ。
凝灰岩の石鳥居をくぐるとすぐに山神様のお堂がある。
このお堂の中には男根を象った石棒や木彫の像などがたくさん納められている。
山の神は女性なので男根を奉納するのだというが、今の世ならセクハラもいいところで完全にアウトだし、あまりに猛々しいような露骨なセクシュアリティにたじたじである。
なぜだろう。性を際立たせるものに違和感をかんじてしまうのは。
これまでもあちこちで姥神を見てきて思うのは、実に明らかな産む性としての女性のあり方である。乳房をはだけた姿も長い髪も象徴的だ。トランスジェンダーや性自認に曖昧さなどないかのような自明のものとしての女性性。しかし、古代中世でも性とはそれほど明確なものではなかったはずだ。
「男と女はグラデーションとしてしか語ることができない」『婆のいざない 地域学へ』赤坂憲雄
との言葉には心から納得するし、
能の世界に描かれる両性具有的な美意識はどうなるのだ。
いや、ここでつまづく自分が文明化された、頭でっかちの性を生きているだけなのか。今の社会においてセクシュアリティのあり方が多様化しているのは、それだけ性差の消失しかけた世界を生きているからなのか。妊娠・出産・育児、あるいは中絶が生産性や経済効率の元に計算されるほど、合理的なものになっているからなのか。これがいわゆるシンギュラリティの到達というもので、無駄な非効率の営みは衰退するということなのか…。
ところで、山奥に来ると湿気と薄暗さが好きな菌類によく出会う。変形菌やきのこの性を思えばこんな生き方もあるんだからまあいいじゃないか、などと頭がゆるんでくる。この山中で出会ったのはスッポンタケ科のキツネノエフデ。茶色い泥のようなものは胞子液だという。どうしたって漂う卑猥な感じ。濃密な生殖活動の気配ぷんぷんだ。
参道をひたすら歩き、不動尊に着く。
樹齢何百年だろうかという杉の大木の根元に姥神は座っていた。
今まで見た姥神に比べるとずい分と勇ましいような男性的な顔つきをしていないだろうか。額の理知的なラインと突き出た頬骨、シャープな目元。肩のあたりはがっちりとたくましく盛り上がっている。こんな涼しい顔で罪を問われたら、参りましたと頭を下げたくなる。
この不動尊から流れる水がふもとの果樹・水田地帯を潤している。山形盆地の豊かさの源。水と信仰と。
民から生まれ出るモラルとタブーの源でもあるか。
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