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山形の姥神をめぐる冒険 読書編 #7

『超人 ナイチンゲール』 栗原康 医学書院 2023.11

 
 すでに多くの書評が出たタイトルなので、その概要や観点を繰り返しても意味はないだろう。私がこの本を取り上げるのは、ここで言われている「霊性(スピリチュアリティ)」「神秘主義」について思い凝らせてみたかったからである。ケアや共鳴、協働について考えてみたかったからである。

 例えば本文中の「おまえはおまえの神を踊っているか」(P63)という一文。この言葉で著者は何を伝えようとしているのか。

 私たちの生活は労働をして賃金を得て税金を払って、もしもの時は国家に保護してもらう予定で成り立っている。ところで時給計算で自分の労働の価値は決められるのか?その計算可能な能力が自分の存在意義になっていないか?
 なるべく効率よく稼ぐ。社会的弱者にならないように懸命に働く。つまり「リスク計算して合理的に生きる」生き方を、現代に生きる私たちは踊らされていないか?

 「沈む夕日を眺めていたら、夕食の時間に遅れてしまった。でもだれにも叱られない。」(本文P97)

 ナイチンゲールは、食事の時間よりも夕日が沈むのを見届けることを優先する人だったのだ。実家に住んでいた時、私も同じ経験をしたことがあった。そんなことでと叱られそうだったから、遅れて帰宅した理由を言うことはできなかった。
 食事を作って待つ人の気持ちを台無しにする行為?それでも夕日を眺めることは、この世の決まり事と全く別次元の尊さがあると思った。その場一回限りのその時を逃すわけにはいかなかった。

 茜色の光に照らされる時、人は主語を失う。「私が」見ているのではなく、夕日に浸されるのである。世界と私との浸透圧が同等になるというか。共に見ている他者がいれば、その他者との浸透圧も同等になる。

 『進撃の巨人 27巻』 諫山創 講談社コミックス で、労働を終えた仲間たちが馬車で語り合う場面がある。夕日が彼らを照らす。普段はお互いに言いにくい未来の展望や本音をこの時は語り合い、打ち明け合う。思いやりと優しさに満ちたやり取り。疑心暗鬼の対立と闘争が続くこの作品の中で、他者と溶け合う稀有なひとときを描いていた。
 あるいはピーター・フランクル『夜と霧』のユダヤの囚人が夕日に感動するエピソードはあまりにも有名だ。この美しい尊い瞬間に共に浸される。ほどける心。

 もうひとつ例を出すと、粘菌探しで森を歩く時も「主語を失う」という感覚になっている。いつのまにか「私」が外れている。森に、土に浸されるのだ。ミミズと私は同等、同位の存在だと感じられてくる。その状態で森を逍遥する時、何となく歩いた先ですごいヤツ(レアな粘菌)を見つけることが多い。そういう時はよく「菌に呼ばれた」と思う。菌の気持ちになっている。ほとんどもう、苔の上で眠りたいくらいになっている。

 この時、何が起こっているか。それは本書に出てくる著者の友人である山伏の話にあるように、時間感覚と認識の回路がガラッと変わっているのだと思う。ナイチンゲールが数千人の兵士が横たわる野戦病院で、今すぐ看取りが必要な重篤者の元に行き、見送ることができたこと。彼女がそのシグナルを見逃さなかったことと重なるのだ。
 どうせ死ぬとわかっている者にそこまでするか?
そう感じたら効率と合理性こそ価値だという近代的人間の型にはまっている。ナイチンゲールは超人なのだ。合理性も損得勘定もない回路につながっている。ほとんどそれはもう、神の領域なのだ。
 神とか超人とか、かなり眉ツバなワードだということはよくわかっている。
でも、そうとしか言いようのない言語化不可能性に、漂ってみよう。

 おまえはおまえの神を踊っているか。
この言葉の響きが少し、具体的に感じられただろうか?
特別な才能がある人の、特別な感覚ではないのではないか。
 きっと、誰もが浸されうるもの。
見失いそうになりながら何度も問いかけたい。
 わたしはわたしの神を踊っているか?

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