山形の姥神をめぐる冒険 読書編 #3
『壊れても仏像 文化財修復のはなし』 飯泉太子宗 著 白水社 2009年
表紙の写真に惹かれて思わず手に取った。著者はNPO活動による仏像や文化財の修復を行なっていて、これは仏像の手先のレプリカなのである。レプリカは修復の際の参考資料なのだという。
姥神めぐりをして少しづつだが、姥神との語り合いは、それを作った人との語らいなのだと思われてきた。
なぜ、この顔にしたのか、彫った人は男性なのか、女性が彫ることもあるのか、顔つきや乳房の形など、人によって注目する部分は違うのだろう。私が注目したのはその手である。姥神の手先は膝の上に指を綺麗に揃えて置かれている。スラリと長い指だったり、身体の割に小さな手だったり。苔が生えている指の凹凸に自分の手のひらをのせてみた事もある。
損傷が激しい姥神も数多く見てきた。仏像と並べて語ることではないのかもしれないが、私はこの旅の始めに、見目麗しい仏様よりも異形の姥神に共感を抱いたのだった。
廃仏毀釈で頭のない姥神に、仏の頭をくっつけた像も見た。しかしこれなら首などない方が姥神らしい。揃えた指に触れてごらん。
女性に附せられてきた聖母や天使のようなイメージとはかけ離れた姥神・奪衣婆の姿。時にシニカル、時に憤怒、そして時には慈愛に溢れた慰め。どんな人がどんな思いでこれを作ったのか、思い馳せずにはいられない。
本文には具体的な修復の仕方や道具の説明など、専門的な話しも多いがテンポの良い語り口と必要以上に幻想を持たせない実直な語り口が小気味よい。
仏像への畏れと敬意を保ちながら、実際に分解して繋ぎ合わせたりしていく中で、様々な想念が流れていく。作った人の技術的な力量、これを修復してきた人の仕事ぶり、その経済力、それを宝として守ってきた人々の思い、祈り。歴史との語らいであり、過去の日本人との語らいである。
なんと味わいのある語り合いだろうか。
こんな世界があったのか。
形を知り、形をやどす。
言葉よりもその形が心に何かを残していく。
皮膚感覚の記憶として。
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