山形の姥神をめぐる冒険 読書編(塔をめぐる冒険②)#10
『塔の思想 ヨーロッパ文明の鍵』 マグダ•レヴェツ•アレクサンダー/池井 望訳 河出書房新社
ほとんど世に知られていないこの本の著者は1886年にハンガリーで生まれた女性だ。知的な家庭環境のもとで教育を受け、オランダやベルギーの大学で教鞭を取っていたらしい。
その生涯の詳細は不明だが、彼女が日々ヨーロッパの街で古い塔と共に生きてきた生活が忍ばれる。塔とは何か、という問いを得て、その着想から考えを深めていく面白さが文面にはあふれている。彼女と一緒に塔に思いを巡らし、その未踏の思索に伴走するのは大変愉快な時間だった。なぜなら現代も世界中で塔は建設され続け、その高さと威容を誇っており、それを人は無駄な労力とは思っていないらしいからである。
なぜ人は塔を建てるのだろう?
その問いから何がわかるのだろう?
この小文ではこの問いを読む人と共有し、塔に思い巡らす冒険へと誘い、誘われていきたいと思う。
塔の語源はストゥーパ(釈迦の墳墓)というサンスクリット語で、中国で「卒塔婆」(そとば)と訳され、日本では「塔婆」と略され、単に「塔」となったという。ここで何といっても注目したいのはパに婆の字が当てられていることだ。この当て字のせいで三途の川に婆がいることになっちゃったのでは?奪衣婆探しの途中で塔にハマってしまったのも必然なのではないかと感じた次第である。
さて、『塔の思想』に取りかかろう。
著者によれば塔には時計塔や灯台などの実用的な機能と精神的な目標があるという。高い所へ思いが向かうのは、人間の抗しがたい衝動のひとつであるという。都市のランドマークとしても塔には人が思いを寄せる吸引力がある。近代化によって都市が再構築されても、古い塔は破壊されることなく立ち続けた。人は塔を見上げて自らの理想や願いや〝逸脱したいという衝動〟を解放しようとした。
「塔は何の役にも立たぬがゆえ、いつまでも塔のままでいられる」とは含蓄の深い言葉だ。塔の持つ魅力は無目的であることなのだという。
ここで注記したいのは著者が塔という建築物を表すのに音楽的な表現を多用していることだ。「強烈なフォルテシモのように、ファンファーレのように響き渡る」塔や、そこから鳴る鐘の音を「童話のような鐘の音楽」「思いもよらぬ即興詩の伝達者」などと表現する。
線と形のリズム、空気を伝う振動の広がり。姿も音も、塔と響き合う人間の身体は塔と共に生きて呼吸している。そこにふとした日常の間隙が現れて人を思索や異世界に誘うこともある。いつも視界に塔が入ることが人間の心象にどんな影響を及ぼすのか。東京に住んでいる方は東京タワーがない風景を想像してみてほしい。あるいはスカイツリーが現れた東京の空に何を思っただろうか。
この後の彼女の「塔をめぐる冒険」はギリシャ建築にはなぜ塔がないのかや、ローマ建築には「実用的な」塔だけがある、といったような興味深い考察を経て、現代の塔へと向かう。
1889年に完成したエッフェル塔やニューヨークのエンパイア•ステート•ビルが彼女の時代の現代の塔だった。今、世界で最も高いのはドバイのブルジュ•ハリファ(2010年、828m)、二番目に東京スカイツリー(2012年、634m)がある。(東日本大震災の翌年のオープンだったのでよく覚えている)
現代の塔に著者が見たのは「集団化された社会のすべてを平均化してしまう暴力に対する、ただひとつのもの」だという。それは「創造的でかけがえのない個人」という価値が資本主義やテクノロジーの進化によって薄められていく危機感の表れであり、自己防衛なのだと。
おそらく、個の消滅は2024年を生きる我々に着実に迫ってきている。我々は日常を過ごすだけでその内容がビッグデータ化され、日々のつぶやきもAIに読み取られてパターン化されていく。巨大なマスの中でマス化していく個性。そこに抗うからこその〝アカウン塔〟なのだが、前回記したように実体のない弱々しい塔なのだ。かけがえのない個人など幻想だったと思わされることばかり。そうして飲み込まれていく個人に「待った」をかける衝動を著者は塔に見た。今の乱立するSNSのアカウン塔を知ったらどんなふうに思うだろうか。
後書きで訳者がこの論考を「男性にも及ばぬような」見事なものだと無邪気に記していた。私が思ったのは「女性ゆえの困難があったかもしれないが」自らの思考をこうして書き残してくれた彼女へのシンパシーである。考えることの自由、つまり頭の中の自由がここにある。
細々としているけど勁(つよ)い糸を手繰り寄せながら、私も姥神めぐりを続けて行こう。異界への入り口、宇宙の謎、輪廻と転生。私が思いつき、私が思考を巡らし、私が発見したものは、地下で菌糸のように張り巡らされる物々交換の循環の中にある。空中に放たれた胞子は塔の尖端に着床し、もぞもぞと動き出す。今ここで、塔と姥神が出会ったのだ。
次回は現代における塔の意味をもう一度振り返って考えつつ、「塔をめぐる冒険」のまとめとしたい。
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