山形の姥神をめぐる冒険 読書編 #12
『感情の民俗学 泣くことと笑うことの正体を求めて』 畑中章宏
イースト・プレス 2023
去年の8月に姥神めぐりを始めて一年が経とうとしている。今までに50体以上の姥神を訪ね、その間に読んだ本の紹介も並行して書いてきた。山奥の消えかかった古い参道を探して薮を漕ぎ漕ぎ、何度チャレンジしても未だに発見できない姥神もいる。クマ、スズメバチ、ヘビ、ブヨらの脅威に怯えつつ、大汗かいて地図を見比べ、ふと我に返った。
わたし、何やってるんだろう?
意味が消失した感じ。隙間が空いた感じ。
そんな時この本を見つけて強い興味をそそられた。自分がやっていることと何か関係がありそうな気がしたのだ。今まで訪ねてきた姥神はほとんどが100年以上前の信仰の地や集落にあり、その姿や表情に実に多彩な〝感情〟を喚起されてきた。ある姥に戦地に赴いた息子への愛を見たり、故郷にいる想い人への郷愁を見たり。不満や愚痴を呵呵と笑われたり、舌を出したしかめっ面に励まされたり。首を切り落とされた像を見て、切り落とした人の〝感情〟に思い巡らしたり。
その集落の、その不動尊の、その寺社の姥神に向かって放たれた人びとの念に巻き込まれ、かつてそこにいた死者に民俗のつながりを感じた。私の身体が今ここにあることと、それははっきりと因果がある。同じ民俗の生活をしてきたから。
湯殿山信仰の道は遠く日本海沿岸から北上して村上を経由し、内陸へ続くルートがある。新潟県と山形県に現存する即身仏のある寺社もこのラインをたどる。盲目の越後瞽女が辿った街道の道とも交錯する。忘れられた日本人たちの息づかいが聞こえる道だ。
縁遠いと思っていた信仰の道が自分の故郷とつながっている。自分の先祖が湯殿山を目指して行脚したこともあったかもしれない。
私が知りたかったことは何だったのか。
『感情の民俗学』では冒頭にこう問いかける。
「泣いたり、笑ったり、怒ったりすることが、私たちの主体的な意思によってなされているわけではない。私たちを取りまく時代や環境、私たちが生きる民俗によって制約を受け、また時代や環境に向けて感情を表しているとは考えられないでしょうか。」
著者には現代の流行•風俗に民俗学的アプローチをした著書があり、姥神探しをポケモンGOみたいだと思った私の感覚ともリンクする。私にも〝推し〟の姥神がいるし、思わず〝尊すぎて〟〝エモく〟なってしまう姥スポットもいろいろあった。民俗学というのは理論や原理がない。断定的な物言いはほとんど現れないから、読む方もじっと思いを巡らせながら漂うことになる。そうやって漂いながら昼寝してしまうこと数ならず。
論破とは別次元の事象の〝腑に落ちる〟感じを味わいたい。言ってしまえばそこに、失われた風景の、失われた心の回復がある気がする。時間はかかるし正解もない。木漏れ日のような死者たちの濃密な影がちらりちらりとする中を、ゆらゆら歩いていく。
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