コンテンツの波が、僕たちから学びを奪う
動物から家族まで、あらゆるものが機械化された近未来。主人公のモンダーグは、ありとあらゆる書物を燃やす昇火士(ファイアマン)として働いていた。自分の仕事に誇りを持ち、満足のいく生活を送っていた彼だったが、燃やした家からこっそり盗んだ本、そして隣に越してきた精神病の少女との出会いを経て、自分の生き方に疑問を抱いてしまう。そして彼は、葬り去られようとしている何かを求めて、無謀な行為に自らの身を投じることになる。
これは「華氏451度」という小説の、大まかなあらすじだ。本が燃やされ、知性が排除されていく社会を描いた、いわゆる風刺小説である。若者(おそらく大人もだろうが)の本離れが叫ばれている現代と、この作品の世界は重なる部分が多い。小説内にて、「2022年以降に核兵器が落ちた」という記述があるのだが、この予測がまだ現実化していないのは喜ぶべきことであろう。
主人公の仕事は本を燃やすことだが、これは古代の皇帝がしばしば行っていた「焚書」とは少し意味合いが違う。どちらも「人々から知性を奪う」という部分は同じだが、彼の住む世界では、多量なコンテンツによってその穴が埋められている。
つまり、単に本の存在を消すだけでなく、本を読む必要性を失わせることによって、その出現を将来にわたって防ごうとしているのだ。人々は、カリキュラム化された教育によって職を得ることができ、彼らの知識欲は、ポップスの歌詞や州都の名前、アイオワ州のトウモロコシの収穫量を覚えているかを競う「記憶力コンテスト」によって満たされる。「人生とは何か」「生きる意味とは何か」といった哲学的命題を考えないようにするため、彼らは巧みに操作されているのだ。
大学が単なる就職のための機関になっていたり、DaiGoや中田敦彦が教養人としてもてはやされている現代をとてもよく風刺していると思うが、あまりここに言及するのはやめておこう。
スマホ一台あれば、現代人はほとんど無限に時間を潰すことができる。そして、そこに溢れているコンテンツは、短時間で快楽を効率よく得ることができるものばかりだ。そんな状況において、読むのに時間がかかり、快楽を得られるかどうかも不確定な本が敬遠されるのは、ある意味当然のことと言える。
肝心の本そのものにすら、「最強の会話術!」みたいな量産型のビジネス書や、「5分で感動できる〜」といったふざけたタイトルのものが増えてきている。そんなトラップをくぐり抜けて、アリストテレスやカントにたどり着くのは至難の業だ。
本を燃やすといった物騒なことは起こっていないものの、人々から本を読む機会を奪い、本屋に大量のビジネス書を置くことによって、実質的に知性の源泉を奪っているのが(いくぶん誇張しているものの)現在の状況である。
本書93ページ後半にあるこの文章は、コミカルながらも秀逸にコンテンツの行く末を物語っている。
あらすじに出てきた精神病とされている少女は、学校に行かず木々などの自然と触れ合ったり、ときどき座って考えごとをしながら日々を過ごしている。彼女が通っていた学校では、みんな黙ってビデオ授業を聞いている。質問をしたりするなどといったこともない。学校が終わった後は、ベッドに直行するか、叫んだり踊りくるったり、殴り合ったりして時間を過ごす。
彼女が学校に行かない理由は、こうした生活を送りたくないからである。そう、彼女はいたって正常なのだ。しかし、周りと違うという理由だけで、彼女は精神病という扱いを受けている。むしろ異常なのは、叫んだり殴り合ったりして時間を過ごしている、周りの人間と言えるだろう。
特に彼女の「座って考えごとをする」という行為が問題視されている。なぜならこの行為は、「人生とは何か」「生きる意味とは何か」といったことを考えることに繋がりかねないからだ。逆に言えば、この考えごとをするという行為が、情報の波に流されない足場を作る土台となる。
さて、この本を読んでいると思い出さずにいられないのは、ジョージ・オーウェルが書いた「一九八四年」だ。この小説でも、人々が触れるメディアは政府によって統制され、政治的なシュプレヒコールを唱えることに、人々の力は注がれている。その中で主人公のウィンストン・スミスは、党に反抗するため秘密裏に活動を開始する。
どちらの小説も、情報が統制された近未来の世界と、それに反抗する主人公を描いている。読者である私たちは、突然現れたディストピアに驚き、それに立ち向かう主人公に共感するが、実際は緩やかに移行していくため、変化に気づくことは容易ではないだろう。私たちも物語の中の大衆のように、知らず知らずのうちに思考力を奪われてしまう可能性がある。
小説と違うのは、これが誰か特定の支配者によって考え出されたものではなく、わたしたちが主体的に選択した結果であるという点だ。スマホを見ることを強制したり、ビジネス書を読むことを強制する支配者は今のところ出てきていない。
そのため、周囲の批判や粛清に怯えることなく、私たちは知的活動を行うことができる。唯一抗うべきものがあるとすれば、自分の弱い心ぐらいのものだ。
恵まれた時代に生まれたことに感謝しつつ、今日も小さな反抗を続けることにしよう。