ネタバレ上等『先輩はおとこのこ』第2巻の考察
『先輩はおとこのこ』第2巻の考察です。
第1巻の考察は、この記事を見てください。
本当にトランスジェンダー?
露出への抵抗感がない
第1巻の考察で、幼少期にピンク色のカバンを選好していたことなどから、まことはトランスジェンダーなのではないかと書きました。
しかし、そのように仮定すると、このシーンには違和感が出てきます。
もしまことの性自認が女性であるなら、男性用の水着を着ることや、上半身を露出することに抵抗があるはずだからです。
学校では女装しているのに、プールで男性の恰好をしているのは、少し不思議な感じがします。
そもそも、トランス女性とプールに行くという状況は、かなり特殊です。
肌を露出すると、周囲から間違った性別で見られることになります。そのためトランスジェンダーの人は、そうした場所(銭湯やプールなど)を避けることが多いです。
それは、まことにとっても同じはずですが、彼が抵抗感や不快感を感じている描写は一切ありません。
幼なじみの竜二はまだしも、咲がそのことを何の疑問も持たず受け入れているのは、どう考えても変です。何かしらの形で、プールに行っても大丈夫なことを説明するシーンを、事前に入れるべきだったのではないでしょうか。
人格が解離している可能性
どう考えても、このシーンでまことは男性として振る舞っています。
彼がトランス女性であるなら、このシーンが何の前触れもなく挿入されることはないでしょう。
極端な説ですが、もしかしたら、彼の人格が解離しているのかもしれません。
母の前では男性として振る舞っているので、彼の中に男性としての別人格が生まれたのでしょうか。そうであるなら、人格を切り替えることで、男性として見られることに抵抗を感じなくなっている、と考えることができます。
しかし、解離性の症状がある人で、そのように人格を好きに切り替えられる人の話は聞いたことがありません。
まことにとって、男性らしい特徴は望ましくないはずなので、わざわざ友達の前で我慢して、男性らしく振る舞うということも考えにくいです。
人格が解離しているという説は、間違いだと考えて良いでしょう。
ノンバイナリー説
「女装=トランスジェンダー」ではない
ノンバイナリーとは、自分の性を、男性や女性といった枠組みで捉えていない人を指す言葉です。
まことは「出生時に割り当てられた性」が男性なのに、女性の恰好をしています。
このことから、私はまことが、トランスジェンダーであると考えていました。
しかし、女性になりたいから女装したのではなく、たまたま可愛いものが好きだったので、女の子っぽい見た目になったと考えれば、ノンバイナリーである可能性も出てきます。
実際にノンバイナリーの人が、家に女性用の服があったので、女性の恰好をしていたという例があります(出生時の性別は女性)。
まことは幼いころから、男の子っぽい恰好をすることに違和感を持っており、どちらかというと女の子の服を好んでいました。
周りから見れば、「トランスジェンダーなのではないか」と思われる状況です。しかし本人は、あくまでも男性であることに違和感を感じているだけで、性自認が女性なわけではありません。
まことの性スペクトラム(前記事参照)が女性側に寄っていることは確かですが、トランスジェンダーだと決めつけるのは、適切でない可能性があります。
「女装」という言葉の違和感
このシーンでまことは、「こんなに楽しいなら、もっと早く女装して出かけてたらよかったな」(読点引用者)と発言しています。
この「女装」という言葉に、私は違和感を覚えました。
トランス女性にとって、女性の恰好をすることは普通であり、わざわざ女装と自分から表現するのは変です。
彼は女性の恰好をすることにも、どこか違和感を覚えているのでしょう。そのため、自分の恰好をあえて「女装」と表現しているのです。
ですが、その後のシーンを見ていると、彼は男性として生きるべきか、女性として生きるべきか悩んでいるようにも感じられます。
ノンバイナリーであるという説も、正解ではなさそうです。
クエスチョニング説
性別を決めかねている
1枚目の画像で、父親に「まことは女の子になりたいのか?」と聞かれたとき、まことは「…わからない」と返答しています。
やはり、明確に女の子になりたいとは考えていないようです。
このシーンのあと、父親の勧めで、好きな性別で通うことのできる高校を選択します。普段は女性の恰好で過ごしていることから、どちらかというと女性寄りなのでしょう。
しかし、2枚目のシーンでは女性ではなく、男性の恰好をしています。
その間に葛藤があったとはいえ、わずか1日の間で、女性から男性に変わることなんてできるのでしょうか。
母親の前では男性として生活していたとはいえ、彼がトランスジェンダーなら、おそらく不可能でしょう。
これはまことが、男性と女性の間で揺れ動いているからこそ、成せることなのです。
男性の自分も「嘘じゃない」
まことは男性として学校に来たあと、「女性でいることにもう満足した」という発言をしています。
3枚目の画像は、そのことを否定され、告白も受け入れられず、去ってしまった咲を見つめる場面です。
そこでまことは、「嘘じゃないよ…」と小さな声でつぶやきます。
見方によっては、普通の人(出生時の性と同じ性別)として生きていきたいという、まことの願望を表しているようにも捉えられます。
ですが私は、これもまことの本音なのではないか、と考えています。
女性である自分も、男性である自分も、どちらも本当の自分なのです。
男性的な部分は少ないものの、まったく無いわけではありません。男性として生きることを決意できるほどには、男性の性自認もあるのです。
完全に男性として生きることは、女性として生きるよりも、本人にとって違和感のある状態です。そのため、演技であるかのように見えてしまいます。
咲はそこを指摘したわけですが、大筋は間違ってないとはいえ、結果的に彼のジェンダーを否定する形になってしまいました。
自分の性別が女性か男性かで悩んでいる状態は、「クエスチョニング」と呼ばれます。女性と男性のどちらでもないという状態は、なかなか理解されにくいものです。そのため咲の発言は、仕方ない部分もあると思います。
個人的には、まことがクエスチョニングであるという説が、一番しっくりきています。
「かわいいものが好き」という表現
ジェンダーの要素を排除する
まことが女性の恰好をすることについて、この漫画では「かわいいものが好き」と表現されています。
「女性の恰好をしたい」や、「女性になりたい」と表現しても良さそうですが、そうしたジェンダーを感じさせる言葉は、意図的に避けられています。
これに関しても、まことがトランスジェンダーではないからなのでしょう。
「女性になりたい」と表現してしまうと、まことに対する誤解を読者に与えてしまう可能性があります。
男性であることに違和感があり、女性の恰好をしているというのは事実ですが、そこから女性になることを望んでいる、という結論を出すのは、間違った解釈です。
まことの素直な気持ち
「性別は決めかねているけど、かわいいものが好き」
そんな素直なまことの思いを、私たちは作品を通して理解していく必要があります。
これは決して、ジェンダーを無視するということではありません。
女の子の恰好をしているけど性別を決めかねている、かわいいものが好きだけど女の子になりたいわけではない、これだって立派な性自認なのです。
正すべきなのは、見た目や嗜好で性別を判断する私たちの考えです。
出生時に割り当てられた性、性自認、見た目やファッション、好きになる対象、これらはすべて別物です。そのうちの1つが決まったからといって、他の部分が自動的に決まるわけではありません。相互に影響することはありますが、人によって差があるのが普通です。
知らず知らずのうちに、私たちは性のイメージを固定化させてしまっています。その人の見た目や、異性愛か同性愛かといった目線だけで、ジェンダーを決めつけないようにしましょう。
竜二のジェンダーにも疑問が?
「女の子姿のまこと」にときめく理由
話が進んでいくにつれ、竜二がゲイであることが明らかになっていきます。いつも一緒にいる咲に、竜二が恋愛感情を抱いている様子は全くありません。
そうしたことを知ったあとに、2巻を読み返すと、変に感じるシーンがあります。
それは、竜二が女性の恰好をしたまことに、ときめいているシーンです。
男性の恰好をしているときよりも、女性の恰好をしているときのほうが、まことに魅力を感じているように思えます。
だからといって、竜二をヘテロ(異性愛者)だと考えるのはおかしい気がします。竜二がまことに初恋をしたとき、彼は女性の恰好をしていなかったからです。
まことと付き合うことになったあとも、特に女性の恰好を望んだりはしていません。
ということは、「女性の恰好をした男性が好き」というわけでもなさそうです。
平凡な答えになってしまいますが、まことのことが好きだから、女の子の恰好をしたまことに魅力を感じるのではないか、というのが私の結論です。
女の子の姿は、まことにとって男の子の姿より自然な状態です。さらに彼は、かわいいものを身に着けることを望んでいます。
竜二は、自分らしく生きているまことの姿に、男の子の姿(抑圧された状態)より魅力を感じたのかもしれません。
あるいは、『源氏物語』で源氏が「女にして見ばや」と言われたように、まことが魅力的な人物のため、女性の姿をしたまことにときめくのは、彼の美しさによるものであるとも考えられます。
いずれにせよ、女の子の姿をしたまことにときめくのは、竜二のジェンダーとはあまり関係がなさそうです。これがもし他の人だったら、同じようにはときめかないでしょう。
普通のカップルという幻想
どのような感情で発せられた言葉なのか
街中で男女のカップルを見つけ、自分が彼らとは違うことに対して、劣等感を抱いているシーンです。
まことは「蒼井さんも… / 普通のカップルに憧れるのかな...」と、咲の気持ちを考えています。
これは、咲と付き合うことを考えたときに、自分が男性でないことに引け目を感じている発言のように思えます。
しかし、咲はまことが女性だと思って告白したのですから、彼女がヘテロでないことは知っているはずです。
そのため、この言葉は咲に対して申し訳なく思っているというよりかは、自分と同じ気持ちを持っているのではないか、と考えて発せられた言葉なのでしょう。
もしかしたら、共感してくれることを期待しているのかもしれません。でもそれよりかは、自分がヘテロの男性でないことへの劣等感のほうが強そうです。
錯乱状態
あるいは、まことが一種の錯乱状態に陥っていたと考えることもできます。
女性の姿をしたまことが好きという、咲の気持ちを忘れて、女性の姿をした自分は劣っている、男性になれば付き合う資格が得られる、といった古典的なジェンダー観にとらわれていたのではないでしょうか。
そのため、男性の恰好をして咲に告白するという、自分の気持ちも相手の気持ちも無視した、パフォーマンスをしてしまったのです。
トランス女性やトランス男性は、ヘテロ女性やヘテロ男性に比べて、狭く偏った「女らしさ」「男らしさ」を期待される傾向があります。
まことも、社会から望まれる姿であるヘテロ男性になるため、必要以上に男性らしい行動をとったのかもしれません。
男性の恰好をし、女性の恋人を作ろうとしたりするのは、ヘテロ男性になりたいという願望のあらわれです。
まとめ
2巻では、レズ・ゲイ・トランスジェンダーといった枠組みだけでは捉えられない、多様な性のあり方が示されました。
ジェンダーというのは、まことのように、本人の中でも定まっていない場合があります。
作者のぽむさんが、どこまでジェンダーの勉強をして、この漫画を描かれているかはわかりませんが、意図して演出しているのだとすれば、相当すごい作家だと思います。
私自身が勉強不足なところが多く、見落としている部分も多いと思いますが、今後の考察で作品のメッセージをできるだけ拾っていければと思います。