曖昧さという日本の武器
ちょうど昨日、息子と「感性と合理性」「説明による共感」みたいなはなしをしてて(こういうめんどくさめな話が息子は好きなよう。自分も嫌いじゃないけど寝る直前はあたまが冴えちゃうからやめてほしい。。)
おなじ人間が仮にいたとして、それでも片方の経験が全く同じく相手につたわるかどうかってはなし。
同じ経験だったとしても、直前の天候やあったヒト、選んだ道でなにかしらの変数あるから100%はムリだよね、でも共通の言葉(経験に関する)使えば50%くらいは共有できるよね、といった。
共通のことば、たとえば数値とか診断とかね。10のレベルのうちいくらかとか、先人が発見した症状の名前とかね。
ってのがあったとしても人間って完璧に同じ感覚は理解できないって話をしてて、その分人間にはデータに落とし切れないほどの要素が混在&相互作用で、それがさらに人間関係で相互作用、、ってなったら、掛け算が大変なことになっちゃうんだろうな。
だから、まあある意味合うひとと出会ったりすることはロマンチックに奇跡といったりするのだと思う。数学的にもロマンチックなことなんだろう。
で、大部分のことをデータが処理できるようになった時、曖昧さが残るのかなとわたしも思っていて、
婉曲とか行間とか
そういうのに、いまの芸術みたいな価値が出てくるのかな?
そうすると、日本にたくさん文句や生きづらさはあるけれど、これからって日本の時代なんじゃないかと思ってる。
だって、
空気は読ませるし、
婉曲表現しすぎだし、
行間に意味含ませ過ぎだし、
なんでも和歌とか俳句にしちゃうし、
相手の気持ちを汲みすぎるし、
はっきり言わなくてもわかれよ、な風潮だし、
もう曖昧さと、文字やデータにならないとこ大得意だと思うんだよね。
しかも、ITのディープラーニングとかそういう分野先に進めるのって海外だから、そのコモンセンスをもとに色々発展してるなら、マルかバツか、赤か青か、曖昧さをいれるにしても淡い赤か淡い青か、みたいな「ぱきっ」とした曖昧さをもとに作られてる気がする。
日本のようにグラデーションのような曖昧さや、虚無や、静、をよしをとするような曖昧さじゃなくてさ。
そうすると、「感性」でのみ感知する部分が残る。やっぱりアートみたいなことになんのかな?
日本の欠点でもあった曖昧さや押しの弱さ、ここにきてアドバンテージになっていくのでは?
そして、日本はその曖昧さを「美しさ」に還元する能力も長けてるからな、うまくちゃんとコンテンツとして活かせるマーケティング担当とか戦略担当とかいないと、せっかくのアドバンテージ、経済上手の国に利用されそう。
お人好しも程々に(笑)
国際結婚中によく感じたのは、日本人が「日本の売り」だって思っているものより、もっと日常のことに価値を感じている海外のひとが多い。日本人の当たり前過ぎて若干コンプレックスにもなってそうなこととか。
総自己肯定感低い国民だから気づきにくいけど、もっとそのままで自信持ってこ!みたいな感じだな。