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こどもの「よかれ」?大人の「良かれ」?

5年くらい不登校関連の活動してきて思うことがある。
たいていの家庭は、そのこと自体に傷ついているわけじゃなかったりする。

もちろん、将来のことや社会性のことは心配。
大変なのも大変。

ただなかなか元気になるのが難しい状態になってしまう場合、たいてい大人の「良かれと思って行動」が影響してる。

◆◆◆

昨日なんとなく思い出したのが、フリースクールとかいまほど公にOK感なくて、その言葉を使うと地方や年代によっては「ト○カヨットスクール」をイメージさせるものでもあり印象が良くなかった。

だから、学校は苦手、もしくは合わないけれど、外出できないわけじゃない小・中学生の行き場所(外出場所)がなかったから、「居場所」みたいなのやっていた。

学校、じゃないから当然小さい年齢の子(低学年)がいれば、公園なども利用する。からだを動かす機会も引きこもっていると減るし。

そもそも、不登校=引きこもりじゃなく、

ー学校行かないと日中出歩いているのはおかしい、ダメだ

という地域の、世間の目があるから籠らざるを得ないだけだ。ホームスクールや違う学び方が一般的なら「今日は学校じゃない学びなの」って出歩けるのに。

で、その情景を目撃したスクールカウンセラーだったか、スクールソーシャルワーカーだったかが、地域の学校や教育委員会にわざわざ「日中にあつまってるんですけど??!!!!」って電話したらしい。

大人も一緒にいて説明したにも関わらず。
私は代表だったのだけど、ちょうどそのとき20分程度買物に出ていて、その間の出来事。

「教員」や「議員」などの権威のないオトナの言っていることは無視ですか?
資格があるとそれだけで人をコントロールできるのか?

普通に考えたら、たむろしてたばこ吸っているわけでもないのに、わざわざご報告いただくというのは、大人の良かれと思って。

でも、そこに隠れているのは、
「わたしは地域の安全、教育のために一生懸命やっていますよ」

という承認欲求。

ただでさえ、学校が居にくい、そして細々続けている居場所も、そういう「ダメな場所」扱いされたら、行くとこなくなるよね、こども。

とは考えない。そういうひとたち。仮にただたむろしても、状況をきちんと確認し、行き場所がないことをどうにかしようとする(それはSWのお仕事ではないだろうからよいんだけど、そういう心配するのがこどもに良かれ、であってという意味)のを考えるのが大人だと自分は思っていて。

どうであれ、こどもの状況をさらに追い詰めるようなことをするのは大人の勝手な「良かれ」であって。
ずっと、ここだけは気を付けています。

これって、大人の自分ぎりの「良かれと思って」になっていない?って・

◆◆◆

結局、こういう大人の行動で深く傷ついてエネルギーをとり戻すのが時間がかかることが多い。

単純な罵倒、批判よりも。
だって、良かれと思っては表向き「善意」だからこどもたちも、「自分が悪いんだ」とおもってしまう。

毎日訪問や電話があったり、友達にプリントをもって行かせたり、感動のお手紙を書かせたり。

ほんとうの配慮と行動としては同じになったりするから紙一重のところもある。

そこの動く目的が、「こども」にあるかどうかだよね。
クラスメートからお手紙渡したら、感動してくるに違いないから、書かせる。とか。

クラスメートにどう思われているかが不安で行けない、って子のための行動だったらそれは響くだろう。
でも大人の勝手な思い込みはこどもにラベリングされる不快感や、感謝できない自分が悪い、という自己否定感を植え付けてしまう。

実際、せっかく手紙をもらったのになぜそれすら取りに来れないの?と教師に言われたケースもある。(頼んでない)
教師の理想を現実化していくのはいいが、そこにこどもがいないと、大人の勝手な押し付けだ。

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