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誰にでも手に入れられる豊かさ「言葉を知ること」について

育ってきた環境や各家庭の経済状況によって、巡り会える人や手にできるチャンスには差が生まれる。
僕が育ってきた環境は、どちらといえば裕福ではなく、教育や芸術が行き届きにくい地域だった。
そのせいとまでは思わないけど、自分や自分のまわりにはコミュニケーションが得意でないがゆえに、内側にこもる人たちが多く、街全体にそんなムードが強かったように思う。

以前、suumoの「街と音楽」にエッセイを執筆したように「生きづらさ」を抱えた子ども時代の僕は、思えば言葉を知ることで、なんとか陽のあたる場所へ顔を近づけることができたように思う。

そんな僕にとって「言葉を知ること」は、けっして雄弁に語るためや、優れた文章を書くことだけが目的ではなく、「第3の目を養う」ことだと思った。
第三の目は、自分のなかに別の視点や新しい見解をもたらし、少しでも生きくやすくなるような方角探しに役たつ。
自分の置かれた状況が悲惨なものだったとしても、その状況を何か別のものに置き換えて、闇のなかで取り乱しながらも、薄明かりを見つけることだってできるかもしれない。
言葉を知り、視点や認識を広げることは、希望に対する視力をあげることでもあるのだ。

言葉を知ることは、心の倉庫に言葉を仕入れることとも言える。
だからこそ「自分の中に空っぽがあること」を大切にしたいと思う。
心が苦しいとき、虚しいとき、自分のなかに空っぽがたくさんできたら、言葉を仕入れてみる。

本を読む、人と話す、音楽を聞く、なんでもいいと思う。
時間的余裕、経済的余裕がない時でも、言葉は無料で即日仕入れることができる。
なんにもする気がおきないときは、僕はよく沈黙する。沈黙だって言葉だ。

かつて、人と話すことや人前で歌うことを最も苦手とした僕がこうやって、文章を書いたり、歌を歌ったりすることができるようになったのは、生きるなかでたくさんの言葉を知り、視界が広がっていったからだと思う。

お金がなくても、時間がなくても、自信がなくても、どんなに困難な状況にいても、言葉の仕入れは誰にだってできるし、自分で気づいてなくても実は無意識下に仕入れられてる。
あとは、言葉倉庫の在庫管理だけ気をつけておけば、いつか必ずその言葉たちが豊かさに出会う出番がくる。

僕はその経験者だ。


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