無意味なわけがない会話──哲学対話と芸術作品
カフェやレストランで、たまたま隣り合わせた人の会話が聞こえてくることがある。雰囲気だけが聞こえてくることもあれば、言葉の一言一句が詳細に聞こえてくることもある。
そんな時に、確実にその人の人生を変えているような内容だったりすることがある。仕事の打ち合わせ、告白、別れ話、カミングアウトなど。
あるいは、何の話だったかと問われるとよくわからないが、後で振り返った時には美化されうるような、もう二度と再現することができない会話というのもある。
あえてこのように書くと大げさに聞こえるかもしれないが、しかしその後の人生に明らかに影響を与える会話というのはある。それは「ちょっと話があるんだけど」といった流れで計画的に生じることもあれば、そんな話をするつもりはなかったけどその場のダイナミズムによって掛け替えのない時間として生成することもある。
「哲学対話」と呼ばれる営みにおいては、話し手の人生が透けて見えるような言葉が出てくることは多い。哲学対話とは、わたしの造語でもなければ、哲学者や哲学的な概念について話したりすることでもない。それはひとつの研究対象として、あるいはカフェや教育や美術の場でなされる実践として世の中に定着している。何をするのかと言えば、集まった人たちでひとつのテーマや作品などを共有し、それについて話す。これだけと言えばこれだけである。主催者やファシリテーターによって異なるが、一応ルールとしては、人の発言を遮らない、参加者が安心して話せるように心がける、結論が出ないことやまとまってないことを話してもいい、一般的な言葉を使う、何も話さなくてもいい、などがある。
わたしも、中学校や高校やアトリエなどで、手伝ったり主催したりしてきた。哲学対話では、人が話すことの壁が崩れる瞬間というのが訪れる。それはどんな風に現れるかと言えば、テーマと全く関係のない話だったり、周りから見れば前後の脈略から逸脱しているが、そのことを全く意に介さないような発話を、話してる人本人が全く気にしていないように話すときに大抵その人のなかではブレーキが外れている。ああ、今日この人はこの話がしたかったんだな、と思う。
人によっては、公共的な場で和を乱したり重たい話をすることに対して、否定的な感情を抱く人もいるかもしれない。しかしわたしは、こうした言葉が現れたとき、最もその人のことが見えた、その人のことが伝わってきた気がしている。こうした瞬間、つまり人が場の引力によって「ほんとうのこと」を言う、言ってしまう瞬間というのは、実際の人生でそう何度もあるわけではない。そもそも人はそんなに本当に思っていることを言えるものではない。本当に言いたいことを他人が直接言う場合、大体の場合は事前に何らかの形で仄めかすような態度がある。
哲学対話を繰り返していると、人の発話にどれぐらいの重力があるのかということが気になってくる。文字通りに受け止めていいものか、あるいはその奥に別のメッセージがあるのか。必ずしも本意をすべて汲み取れるものでもない。しかし、だからこそ「ほんとうのこと」を相手が言ってくれたとき、あるいは溢れ出てしまったときは、とても貴重な瞬間だと感じるし、そのとき可能なしかたで、何かしら応えたいと思う。
哲学対話はイベントや教育活動の一環として行われるが、そういう意味では完全な日常的な地平にある会話ではない。場として設えられているという意味では、日常よりもフィクションの濃度は高い。しかし作品化された対話や空間というわけでもない。
わたしは哲学対話を続けているうちに、対話が生成する、日常会話でも芸術作品でもない独特のフィクション性が気になるようになった。こうした関心が、映画監督の濱口竜介の作品・制作論に関心を抱くきっかけだった。[1]
濱口監督の映画制作の関心には、映画というジャンルに固有の問題以前に、人と人の「無意味なわけがない会話」がある。あるトークイベントで、濱口さんは学生時代に「無意味なわけがない会話」を映像に収めることができればそれだけで映画になると思った、といった類の言葉を残している。実際彼の作品や制作論を調べてみれば、そこには演技を洗練させていく方向性だけではなく、役ではない演者本人を浮かび上がらせるようなモチーフとして、「いい声」「はらわた」「聞くこと」が登場する。いずれも細かい分析は論文の中で展開したので、そちらをお読みいただくことにしたい。
「いい声」とは、俳優が演技を洗練させていくための訓練として発声を磨き上げていくことで表現されるような声ではない。そこで問われているのは俳優ではなく人間としての演者であり、目の前にいるその人が、いま思ったことを言っているな、と信じることができるような声のことである。そして、その「いい声」を引き出す技術として、濱口さんは「聞くこと」を挙げている。徹底して、あなたの話を聞かせてください、という姿勢をこちら側が見せること。それこそ演技ではないしかたで、あなたの話に興味があるということを示すことが、目の前の人間から信じられる声を引き出すことにつながる。
哲学対話でも、映画制作とは目的やニュアンスのちがいはあれど、「聴くこと」は重要な態度であるとされている。実際哲学対話のファシリテーターをやりながら、こちらが聴くことを徹底するほど、発話者の言葉が増えるという場面はよくある。そして、そういうとき人は、みずから話しているのか、それとも言葉がおのずから出て来るのかほとんど判別できない状態に置かれるが、そんな風に現れた言葉ほど聴いていた側の記憶に残る。
わたしは質感のある言葉、その人のその人らしさが宿っている言葉に出会いたくて哲学に関心を持った。それは、言葉の交換は無数になされているものの、他人との関わりにおいてどこか生の手応えを感じられなくなっている世界の中で生きていることの反動から来るものだったのかもしれない。
哲学対話は芸術作品ではない。しかし濱口監督の作品や制作論には、哲学対話で生成されるような、無意味なわけがない会話を映像で記録することができれば、それだけで映画になるという確信が根底にある。
無意味なわけがないと感じる会話は、いつどのようなかたちで訪れるかわからない。取りこぼしてしまうような日常の場面や、哲学対話、あるいは稽古場かもしれない。
今はあらゆる分野で毎日のように大量のアウトプットがなされて情報が流れてくる。人工的な制作環境や宛先を失った情報の中でたゆたうだけではなく、生きていることの感触は自分でつくれるようでありたいと思う。身の振り方を判断するにあたって「無意味なわけがない会話」から得られる質感のようなものがあるかどうかという予感は、いつからかわたしにとってひとつの基準になっている。
[1] 濱口竜介の制作論についてこれまでにまとめた論文として以下のものがある。https://www.jstage.jst.go.jp/article/azur/24/0/24_15/_article/-char/ja/
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