【展評】人は月で祈るのか──小野愛『触れようとする』(北千住BUoY、2024年)
死を理解しない子どもから、死者の行き先を尋ねられた時に大人は「お星様になったんだよ」、「お月様に行ったんだよ」と説明することがある。星、空、月などの天体的なモチーフは、死を理解しない子どもにとっては死後の行き先を表す隠喩として作用する。
一方、生きている大人同士が「月に行く」ことについて話す時、人間が月に行くことは壮大なスケールの出来事として語られる。こちらは、月に着地することそのものに価値が見出されている。
人間にとって「月に行くこと」は、文脈によって死と結びつくこともあれば、地上や身体といった生きることの制約を脱したいという欲望の現れにもなる。
どちらにしても、月に行った人間は何をするのか、しているのかという話にまで及ぶことはそれほど多くはないように思う。
生きている人間が死者に接近を試みても、死者から目に見える形での応答があるわけではない。次元を超えた交歓のただなかでフィードバックを得られない時、生き残っている側の人間は、見返りの実感を欠いたまま、それぞれの技法で死者との関わり方を探ろうとすることになる。お墓参り、祈り、遺品を傍に置いておくこと。それに該当する行為が、人によっては「縫うこと」になったりもする。
1. 「触れる/触れられる」の気配
小野愛の展示『触れようとする』は、過去を引き受けることや記憶を紡ぎなおして生きていこうとすること、生者が死者と関わろうとするところに生じる跳躍、生きている人間が他人に「触れようとする」時に生じる身体感覚の錯綜などがコンセプトになっている。
小野のこれまでの制作の核には「縫うこと」があった。小野にとって縫うことは、自身の記憶を縫いなおすこと、過去を引き受けつつもそれらを組み換えていくことで、その先に広がる道筋を生きていくための行為でもある。言い換えると、具体的に針で糸や布を縫うことであると同時に、自分と見えないものたちとの間に広がる距離を埋めようとする行為とも言える。
展示のタイトル「触れようとする」は、小野が「触れる/触れられる」をテーマに進められたプロジェクト『からだの対話の場をひらく』(AAPA、2023 − 2024)に参加する中で、コンタクト・インプロヴィゼーション(CI)のワークショップに参加したり、ダンサー、俳優、哲学者との交流を通して浮かび上がってきたテーマでもある。
ワークショップでは実際にCIをやってみたり、ボディ・ワークをしながらその都度からだが感じたことをことばにして共有してみる、といった時間の繰り返しで進められた。参加者にはダンスの経験がない人も多かった。CIやボディ・ワークを経た参加者からは、実際に相手に触れようとする時の手触り、触れてみた時に生じる多層的な感覚、身体経験に由来する正直なことばが語られた。
展示空間の手前側には『触れる/触れられる/触れられない』と題された、ワークショップの場で語られたことをテキストとして再構成した上で、作品化された音声と、モビールで吊るされた手の形をしたオブジェが並置されている。
展示空間に響いていた音声の中から、実際に語られたことの断片を確認してみたい。
からだが感じたことについてのことばを文字にしてみると、そのおぼつかなさが際立ってくる。
生きた関係性の網の目の中で生じる「触れる/触れられる」は、自分をそこから切り離して眺められるような対象ではない。常にすでに自分もそこに巻き込まれながら、能動 − 受動、主体 - 客体といった構図のあいだで揺蕩うことが、人や環境と関わろうとする時の条件でもある。
相手の気持ちが気になること。触れる前に相手と自分のあいだにある、関係性の蓄積。もたれること、もたれられること。「触れる/触れられる」の交差において生じるこれらの多層的な感覚は、人が人に「触れようとする」時に生じる。
ところでわざわざ強調したりはっきりと分けられるものでもないかもしれないが、どちらかと言えばここに引いた言葉は生きている人間が生きている人間に触れようとする時の言葉であると言える。
生きている人間が死者に触れようとする時、触れようとすることの重力やその身体感覚を発露にした言葉は、もう少しその様相が変わってくる。
2.手向けの宛先
『触れる/触れられる/触れられない』の音声の中には、例えばこんな言葉もあった。
「触れる/触れられる」ことの「正解」を相手の気持ちや感覚に求めるのではなく、自分のからだに根差した感覚を頼りにすること。この態度は、生きている中で他人と接触する時の感覚としても受け取れるが、死者に近づこうとした時に生じる身体感覚の方に近いのではないだろうか。別の言い方をすれば、生きながら死者と関係性を結ぼうとするところでは、自分のからだが感じていることの他に、よすがとなるものがない。
少し飛躍があるかもしれないが、みずからのからだの他に頼れるものがない状況にいる時、からだの中に浮かんでいる矢印は、自分の身体感覚を研ぎ澄ます方向へ向かうように思う。心細くはあるが、唯一の基盤であるみずからの身体感覚を磨くことが、耐え難い現実を受け入れていこうとするための技法へと昇華していく。
小野にとって「縫うこと」や「手向け」、あるいは「祈り」といった、こちら側の行為と等価な見返りが約束されているわけではないが、内発的にそれを行わざるをえない反復の営みが制作の軸にあるのは、現世の時空間には上手く接地させることができない出来事となんとかして折り合いをつけるために編み出された技法なのだと思う。
会場の奥に配置された作品『手向けの形を探す』は、縫うことの造形化として生み落とされた葉っぱやお花の形をしたオブジェと、小野が実際に作品を縫い続けている手元を撮影した映像作品、それから小野の亡くなったパートナーが2015年に制作した音楽といった3点から構成されている。
この作品はプロジェクトのコンセプトでもあった「触れる/触れられる」が、プロジェクトに参加するより以前から小野が持っていた関心を経由して制作された作品である。2018年にパートナーを亡くしたことがその後の生活と制作の軸となっていた小野にとって切実さを持っていたのは、生きている相手との間に生じる触覚的な相互作用ではなく、亡くなったパートナーにどこまでも「触れられない」ということだった。花を生けたり、線香に火を灯すといった、死者と関わる方法として既に存在する行為がどれもみずからの身体感覚にそぐわない時、小野に切実さを与えた行為は「縫うこと」だった。
小野にとっての縫う行為と、縫い続けることで時間の蓄積として造形化されていくオブジェは、祈りそのものでもありながら、この世に着地させられない死者を降り立たせようとするための場としての役割も持っている。
美術家の岡崎乾二郎は、墓について次のように述べている。
墓の役割は、現世に属している人に向けられた創作物というところに尽きない。墓は、生きている人間が上手くこの世に位置づけられない死者を内包し、複数の異なる次元の結び目として存在するところにその本質がある。岡崎がここで墓について述べていることは、小野が縫うことに託した意図と重なっている言葉として読むことができる。
岡崎は同じ著作の中で芸術の意味について、次のような言葉も残している。
ここまでの話とつなげてみよう。芸術の意味とは、具体的な何かを記録することだけではない。現世の判断基準で処理できるような表象、アイデンティティ、コンセプトを記述することだけでもない。芸術の意味とは、現世の認知的フレームからこぼれ落ちたり、既存の単位では測ることができないことによって、他者に共有することが叶わなくなった後にそれでもなお残る感覚の強度を実現することにある。それは、死者に触れようとする時に既存のどのような行為も感覚に沿わなくなった後で、唯一拠りどころにできるようなみずからの身体感覚の強度でもあり、縫うことを祈りに見立て、ストイックなまでに純粋なしかたで反復行為を引き受けようとする、小野の身体感覚でもある。
最後に、タイトルの問いに触れておきたい。「人は月で祈ることがあるのか」という問いは、死者は生きている人間に向けて応答することがあるのか、という意味合いを含んでいる。たとえばこちら側からの祈りに対して、応答してくれているのかどうかということは、現世にいながら分かることではない。
しかし死者に限らずとも、生きて出会うことができないもの(キャラクターや妖怪といった架空の存在)と、人は関わることができる。そこには生きている者同士の触覚的な交感とは異なった、別の「触れること」がある。触れようとする対象は決して現前することはないかもしれないが、こちら側が「触れようとする」限りにおいて有限な姿でその都度現れる。触れられない対象に触れようとすることは、諦念だけに由来する否定的な態度ではなく、人が生まれて、生きて、死ぬことの時間の流れにおいて、確かな手触りを持った、生の進め方のひとつなのだと思う。(文:長谷川祐輔)
引用一覧
1. 『触れる/触れられる/触れられない』の音声より引用。
2. 『触れる/触れられる/触れられない』の音声より引用。
3. 会場で配布されたハンドアウト。
4. 岡崎乾二郎『感覚のエデン』亜紀書房、2021年、20頁。
5. 岡崎、同上、17頁。