僕が得たかった普通の幸せ
昨晩、人は平等を嫌い、ものを考えたくないを投稿して暫くして、アナザースカイに登場した、食べ物屋のマスターの顔が浮かび、マスターは58才で独身、年中無休でカウンターに立っているという話をしておられた。
今の僕と相対的に比較できるのは、独身という所だけだけど、話の内容とお客さんへの接し方で妙に親近感を覚えた。
大阪という場所に馴染めなかったなという思いと、8ヶ月くらい住んだ事があるのだ。
故郷である嘉川という場所にも、馴染みのある人は居ない。
他人との関係性の作り方において、余り人には近づきたくないし、距離を置いておきたい、家族や親戚に対してもより強く感じるのが、原因かも知れない。
僕の中で、仲が良い人や親密な関係になる程、そこからほころびが生じ、問題が起こるとしか思えないのだ。
他人なら人はそんなものであると思えば良いのだけれど、情が移るとそのまま受け流せなくなるから、困ったものである。
やっぱり、他人との関係性はドライで居たいし、あっさりと対処したいものである。
話を元に戻すと、僕の現状について満足している状況ではないという話である。
やっぱり普通の幸せが欲しかったのである。
①社会の中で働いている責任と仕事が欲しかった
②自分の子供が欲しかった
③妻が居て、家庭を作りたかった
④持ち家を購入したかった
⑤仲間や友人に恵まれたかった
簡単に思い浮かべると以上の様な事が出てくるのだけど、これは当たり前の未来だろうか。
それとも自分が欲張りすぎているだけだろうか。
以前パートをしている時に、妹夫婦が家を購入するという話をしたら、職場の人にそれって普通のことじゃないのという話をされた。
その時に僕の中で、ちゃんと家族がいて、貯金もあって、お金を借りられることは中々出来ることじゃないなという想いがあったのだ。
だから、他人が普通と思う事に対して、自分の中で違和感が生じる事もあるし、僕が当然と思う事に対して他人がどう思っているか分からないぞという考え方もある事を知っているのだ。
その事を踏まえ先に述べた、僕が得たかった普通の幸せを叶えられるなら、今からでも欲しいと思った訳なのである。
年齢や病気を理由に諦めたくはないと思ったのである。
結論的に僕が記事を書きながら考えた結果、決して欲張りすぎては居ないけど、この事が普通の幸せとも言えない。
やはり、人が望む想いである以上、特別な想像する未来で他ならない。
自分で書きながら、昨日の記事の続きを書いている様な気持ちになってきた。
同じハッシュタグで投稿しようと思う。
それでは、また。