「オラクル・ナイト」の青いノート
(この文章はいわゆるネタバレを含みますのでご注意を)
二十年くらい前、ポール・オースターの小説にかなり心酔した時期があった。日本語訳が出るのも待ち遠しく思うほどだった。ちょうどドイツ留学中に「幻影の書」が発表された。ドイツの書店にはすぐにドイツ語訳のハードカバー本が並び、装丁が素敵だったので「幻影の書」はドイツ語で読んだ。確か「オラクル・ナイト」は、その次の長編小説だったと思う。
「オラクル・ナイト」が出たころはもう帰国していたので英語の原書に挑戦したのだが、冒頭の数ページで挫折。その後、自分の中のオースターブームが自然に去ってそのままになってしまったのだが、冒頭の、主人公が文房具店で青いノートを買うシーンのことは強く印象に残っていた。noteで本に出てくる道具シリーズを思いついたときにも、すぐにそれを思い出し、今回改めて「オラクル・ナイト」を最後まで読んでみた(もちろん日本語訳で)。
舞台は一九八〇年代のニューヨーク。大病をした主人公シド(作家)は、四か月ほど前にやっと治療を終えて自宅に戻り、少しずつ生活を取り戻そうとしているところ。ある日散歩に出て、こぢんまりとした文房具店を見つけるところから始まり、それから九日間の出来事が語られていく。
四か月の無気力と沈黙の末に、出し抜けに道具を一通り揃えておこうと思い立ったのだ。新しいペンと鉛筆、新しいノート、新しいインクカートリッジと消しゴム、新しいメモ用紙とフォルダー、新しい何もかも。
この気持ち、よくわかる!新しく何かを始めようというとき、ペンやノートを新調することは手っ取り早い儀式だ。どこでも買えるし、たいしてお金もかからない。小さな文具店を見つけて、初めてその気になるのはなんだかとてもいい。
そしてシドは店に足を踏み入れるのだが、この文房具店の描写がとても魅力的だ。店内は静かで、レジの男が何かを書きつけている鉛筆の音しかしない。狭いけれど品揃えは充実していて、「何から何まで揃っているように思える」。商品の大半はよくある学用品や事務用品なのだが、ひと棚は輸入高級品に充てられている。そこで問題のノートと出会う。
ポルトガル製のノートがとりわけ私には魅力的に見えた。表紙は硬く、方眼の罫が入っていて、糸で綴じた紙はしっかり厚く、字もにじまなさそうだ。手にとった瞬間にもう、これは一冊買うしかないと私は決めていた。お洒落なところ、気取ったところは何もない、きわめて実用的な道具である。愚直で、月並な見かけで、使い易さ第一、誰かにプレゼントするようなたぐいのノートブックでは全然ない。でもそれが布張りだという点が気に入ったし、形にも惹かれた。縦二三五ミリ、横一八四ミリだから、たいていのノートより縦が少し短く横が少し広い。なぜなのか自分でもよくわからないが、この縦横の比率が私にはひどく好ましく思え、初めて両手に持ったときにも、ほとんど肉体的快楽に近いものを感じた。突然の、説明しようのない幸福感だった。山にはノートは四冊しかしか残っておらず、そのそれぞれが違った色だったー黒、赤、茶、青。私は青を選んだ。それが一番上に乗っていたのだ。
店名は「ペーパー・パレス」。店主チャンとの会話から、実はこの店が開店してまだ一月しか経っていないことがわかる。そしてポルトガル製のノートは、メーカーがもう倒産してしまって手に入らないということも。チャンが、誰もが使う紙や筆記具を扱う商売を非常に誇りに感じていることに感銘を受けて店を後にする。
この小さな買い物のあとシドはとっても幸せな気分に包まれて、帰宅するとすぐにしばらく座らなかった机の前に座り、万年筆にカートリッジを入れてこのノートを開く。不思議なことに、このノートにより創作意欲が突然掻き立てられたのか、取り憑かれたように物語を書きつけ始める。
しかし、このノートに没頭しはじめたあと、彼の周囲に不思議なことが起こる。そればかりか、せっかく療養を終えて仕事に復帰しようという意欲を取り戻しつつあるのに、シドの身には不幸なことが続くのだった。この小説はわずか九日間ほどの出来事で構成されているが、シド自身の話のほかにシドが青いノートに書いている物語と、さらにその物語の中に「オラクル・ナイト」という小説の原稿が登場して、重層的になっている。
ペーパー・パレスは閉店してしまい、店主チャンとの再会は不快な結果に終わる。さらに自分の闘病中に、メンターともいうべき先輩の作家と妻の間に何かがあったことを知ってしまう。しかも、それを誰にも話せない。ポルトガル製の青いノートは、人間の弱さ、隠したい過去、知られてはいけない秘密への入口なのか。物語の最後、発覚した哀しい物語を書きつけてから、シドはこの不吉なノートを処分する決意をする。
シドがノートを見つけたときのような、ちょっとした日用品の買い物や店の人とのちょっとしたやりとりが、ものすごく幸せな気持ちをもたらしてくれた経験は、誰にもあるのではないだろうか。魅力的なチャンの店や、ノートを買って帰宅したシドの幸せな気持ちがずっと続いてほしかった…初めてこの本を読んだときに冒頭だけ読んでやめてしまったのは、そのあとのまったく幸せでない展開を予見したからだったのだろうか。いい感じの煙草屋が出てくる「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」みたいなのを期待したのに。
とはいえ、シドの買った青いノートがどんなものだったのかはもちろん気になる。糸綴じで方眼罫、万年筆で書いても裏抜けせず、布張りのハードカバーでしっかりしていて、あくまでも実用的で、しかも言葉がどんどん湧いてくるノート…ほしい!
糸綴じのハードカバーのノートはいろいろあるけれど、クロス装というのはあまり見かけない。もしどこかで、シドが見つけたのと同じようなノートを見かけたら…買うべきかどうか、悩むだろうなぁ。