キャベツの切り方に見た、プロの凄み
テレビで料理番組をやっていた。
見るともなしに、ぼんやりと眺めていた。
野菜のスープ。
料理家の先生が、キャベツの切り方を説明していた。
一枚ずつはいで、数枚重ねたキャベツの芯の部分、その真ん中を、まずタテに半分に切る。
そのあとは、全部を同じ大きさに切って、ほかの材料とともに鍋へ入れてしまう。
芯をとってしまうこともできるけど、とらなくてもいいかなと思って、と先生。
煮ちゃうから気にならないんじゃないかな、と言う。
そのかわりに、芯に1回、切り込みをいれたのかな…?と思い、ハッとした。
料理の本で見ると、キャベツや白菜などの芯のある野菜は、芯と葉で切り方を変えることが多い。
芯と葉っぱの部分では、硬さも厚みも火の通る時間も違うからだ。
だからときには、芯だけを使ったり、葉だけを使ったりすることもある。
できあがった料理を食べたとき、芯も葉も違和感なく同じような食感で食べられるように仕上げるには、あらかじめ芯を葉よりも細かく切っておくか、芯を先に鍋に入れて火が少し通ったところで葉を入れる、というように時間差で調理する必要がある。
だけど、それは、ちょっとしたことではあるのだけど、急いでいるときなんかは、ちょっぴりめんどくさい。
実際、私も、今日は時間がないから!と、省略しちゃうことがよくある。
すると食べたとき、硬いところと柔らかいところが混じっているなと、すぐわかってしまう。おいしさにちょっとだけ、ケチがつく。
今日の料理家の先生は、ベテランと呼ばれるキャリアの方。
日本中に、ファンがたくさんいる。
彼女のレシピはおいしい。
せっかちで大ざっぱ、そのくせ時間がかかる(つまり、不器用な)私には、使う材料と工程がやや多く感じてしまうのだけど、それでもおいしさにつられてがんばって作る、そんな存在だ。
そんな彼女が、ごく自然に伝えていたキャベツの切り方。
そこに、テレビを見ている人たち、毎日のように料理をしているだろう人々への愛情をかいま見た気がした。
芯と葉の切り方を変えないでいいのなら、工程が少し省ける。時間も省ける。
芯を捨てずに使えれば、節約にもなる。
だけど、芯の真ん中に切り込みが入っているから、できあがったときもほどよく柔らかくおいしく食べられる。
鍋に入れるタイミングも、全部いっしょでOK。火の通りにくい芯から先にとか、こまかく気にしなくていい。
はやくできたほうがいいよね。
手間は少ないほうが助かるよね。
でも、おいしくしたいよね?
そんな彼女のおちゃめな目くばせを感じた。
料理家の先生たちは、テレビや雑誌やWEBで料理を提案するとき、事前に何度も何度も試作をおこなうという。
そのなかで、受けとる人やテーマにあわせて、材料や作り方を変えたり、火かげんや調理時間や調味料の量などをこまかく調整していく。
それだけでも、大変なエネルギーを使うと思う。
おいしさはもちろん、見ばえや、斬新さには、とうぜん注目が集まる。力のみせどころだ。
だけど、それだけじゃないんだ。
作りやすさはどうかな、省ける手間はないかな、こうしたほうが喜ばれるかな、別の切り方でもいいかも?、と想像をめぐらせていないと、材料の切り方なんていう小さな部分にまで思いいたれない。
何度も同じ作業をくり返し、たくさんの経験をしてきてもなお、新しい視点で点検しなおす目。
レシピを見て実際に料理をする人々、それをとりまく今の生活環境を思い、すみずみまで工夫を惜しまない気持ち。
そんな彼女の姿勢がすけて見えた気がして、頭がさがる思いがした。
「プロだからあたりまえ。ベテランだからなんでもできる、なんでもわかってる」ってわけじゃないんだ。
ベテランになってもなお、神経をさまざまに張りめぐらせて、アップデートしているからこそ、彼女は今も多くの人を惹きつけているのだと思った。
これからも、私は、彼女のレシピを作るだろう。
ちょっぴりめんどうに思いながら、でもやっぱりおいしさにつられて。
そしてそのたびに、キャベツの切り方にまで気持ちを注いでいる彼女のことを思い出し、ひとり、背筋をのばすと思う。