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聖書の諸翻訳は読み比べられるか

はじめに

聖書系Vtuberの足袋田クミです。この記事ではいくつも存在する聖書の翻訳を選んだり読み比べたりすることの意味や注意点についてまとめていきます。翻訳がたくさんあることによって生じる疑問に答えていけたらと思います。

翻訳がたくさんあるのはなぜ?

言葉は古くなる

ひとつには、言語や文章の耐用年数とも言うべきものが原因です。その時使った言葉が、30年も経てば意味が変わったり、全く意味が通じなくなったりするのはごく自然なことです。日本聖書教会も、だいたいこのくらいのスパンで翻訳をいくつか出版しています。

例を出します。次の箇所を見てください。

わたしは苦しまない前には迷いました。
しかし今はみ言葉を守ります。
詩篇119篇67節 口語訳

「苦しまない前に」とありますが、つまり「迷った」「苦しんだ」「今は御言葉を守る」という時系列の出来事を表現しています。今はあまりこういう言い方はしないように思います。

苦しみに遭う前、私は迷っていました。
しかし今は、あなたの仰せを守っています。
詩編第119編67節 聖書協会共同訳

表現が変わりました。どちらの方が自然に感じますか? 個人個人の感じ方はそれぞれですが、おそらく統計をとれば生まれた年代の差が出るのではないでしょうか。

想定読者や用途の違い

話しかける相手が違えば、使う言葉が変わるのはよくあることです。さらに、相手が同じでも場面が違えば言葉遣いが変わるものです。たとえば、日本のプロテスタント教会の礼拝での聖書朗読に使えるように、という目的があり得ます。

次の箇所を見てください。

18 …すべて外から人に入って来るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 19 それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。…
マルコによる福音書第7章 聖書協会共同訳

「外に出される」というのは、要するに排泄されて処理されるということです。聖書協会共同訳は、礼拝での使用を目的においていますから、あまり直接的な表現は避けられているのでしょうか。別の訳を見てみましょう。

18 …外から人間の中に入ってくるものは全て人間を穢すことなぞありえない、ということがわからないのか。19 それは人間の心の中に入ってくるのではなく、腹の中に入り、そして便所に出て行くだけだ、ということが…
マルコによる福音書第7章 田川建三訳

実はこちらの方が直訳に近くなっています。私などは、結構イエスは冗談が好きだったのかなあと想像します。この例に限らず、田川建三訳は学術的な興味のある人や、とにかく原文に近い翻訳を読みたい人には重宝するでしょう。

教派・教理の違い

キリスト教会のなかで、大きく、カトリック教会、プロテスタント教会、正教会と考えてみてもそれぞれの教派で伝統的に使っている言葉遣いが違います。ペテロやイエスといった固有名詞もそうですし、聖霊や栄光などの用語も定訳が違います。

さらに、思想的な理解の違いがある、つまり教理が微妙に異なる場合は、個々の聖書箇所の翻訳の違いという形でそれが結実することもあります。ある箇所を「キリストの真実」と訳すか「キリストへの信仰」と訳すかといった場合です。

しかし、聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めました。約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。
ガラテヤの信徒への手紙第3章22節 聖書協会共同訳
しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。
ガラテヤの信徒への手紙第3章22節 新改訳2017

ここの議論は長くなるので、興味のある方は羊たちの夕べのこちらの動画をもしよろしければご覧ください。

最新の研究の成果

考古学上の発見や、ヘブライ語・ギリシャ語さらに周辺の言語の研究が進み、聖書翻訳に影響を与えることは少なくありません。文語訳が底本に使ったギリシャ語の本文と聖書協会共同訳が使ったそれとでは、ある文や段落が削除されたり単語の順番が変わったりと色々変化があります。あるいは、バッタの生態を考えると訳語を変えないとおかしい、などといった議論もあったようです。聖書解釈の研究が進んで今までの理解が不適切だったと分かった、と考えていただければよいでしょう。

私の同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアによろしく。
ローマの信徒への手紙第16章7節 聖書協会共同訳
わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。
ローマの信徒への手紙第16章7節 新共同訳

前者のユニアは女性形の名前、後者のユニアスは男性形の名前です。細かい議論は省きますが、この名前は女性のユニアを指していると考え直されたようです。詳しくは、浅野ほか『ここが変わった!「聖書協会共同訳」新約編』(日本基督教団出版局、2021年)のp.79からを参照してください。

翻訳というより翻案と呼ぶべきもの

リビングバイブルというものがあって、読みやすい日常語の翻訳を銘打っています。読みやすい、とっつきやすいというのは素晴らしいことだと思うのですが、意訳というよりも、少しフレーズを増やしているところもあるので、翻訳と言ってよいのか疑問に思うところもあります。しかし、実際聖書の翻訳にはどんなものがあるか、というときに紹介されるもののひとつです。

「ああ、これはすばらしい!」アダムは思わず叫びました。「私の骨と私の肉から造られた、まさに私の一部です。そうだ、『男』から造ったのだから、『女』と呼ぶことにします。」
創世記第2章23節 リビングバイブル
人は言った。
「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。
これを女と名付けよう。
これは男から取られたからである。」
創世記第2章23節 聖書協会共同訳

ちょっと増えてますね。しかし、こういうところがある、ということをご承知いただいて読む分には良いと思います。

たくさんある翻訳とどう付き合っていけばいいか?

どれでもいい

大前提ですが、別にどの訳を使っても問題ありません。どの訳を読んでいては聖書のことを分からないとか信仰に入れないとかそういうことはありません。言葉の好みもありますし、時代の変化とか本人の日本語力の問題もありますので、自分の好きなものを読んでください。

基本的に使うものを決める

そうは言っても、いろんな訳のあちらこちらを読んでいると、用語が統一されていなかったり、表現が似ているところを意識して訳してあるところに気づけなかったりしますので、いつも使うのはこれ、とひとつ決めるのがいいでしょう。

その場合、やはり最新の研究の成果が反映されているというアドバンテージはありますので、迷ったなら最新のものを使ったらいいと思います。

バリエーションは立ち位置を確認する

さて、他の訳も読みたいと思われるかもしれません。その場合、メインのものとどういう違いがあるか先に確認してください。公式サイトや聖書の最初と最後に情報が乗っているかもしれません。分からなければせめて発行年だけは確認しましょう。

もし内容的に違うことがあれば、同じところの出している二つであればより新しい方を当然ながら優先してください。比較的同じ年代のもので違う教派のものであれば、それは立場の違いかもしれません。

通読したら次の訳、という提案

残念ながら私自身の体験ではないのですが、数回通読した後は、違う訳を使って通読したい、という人が散見されます。友人に聞いた話だと、さすがに3回も同じ訳を使って通読すると新鮮さが薄れてしまうようで、新しい気持ちで読むためにも違う訳を使うことにするそうです。仮に同じ内容であったとしても若干言い回しの違う文章に触れると脳が働きやすいのだと思います。

正しい訳、間違った訳とは何か?

複数の訳からより正しい訳を選択できるか?

さて、こうした訳文を並べて眺めるのは壮観ですが、内容の相違があった場合、どれが正しいのでしょうか? というより、あなたはどうやってどの訳文が正しいか判断するでしょうか?

原語を扱えない場合

あなたが、ギリシャ語やヘブライ語について全くの素人だとしましょう。その場合、残念ながら個々の箇所についてどれが正しいかを判断する術はありません。強いて言えば、より新しい訳があっている可能性が高いので、そちらの方が正しいと考えてください。

読み比べて、内容が分かりやすくなる方が正しい訳だと思われるかもしれません。しかし残念ながらこれはうまいやり方ではありません。聖書の内容は時に分かりにくいからです。正しい訳の方が分かりやすいという保証はありません。

読み比べて、他の箇所と内容が合致する方が正しい訳だと思われるかもしれません。しかし残念ながらこれはうまいやり方ではありません。聖書の内容は時にそれぞれの箇所で食い違うからです。正しい訳の方が整合性が保たれているという保証はありません。

読み比べて、信仰的な方が正しい訳だと思われるかもしれません。しかし残念ながらこれはうまいやり方ではありません。聖書の内容は時に読者の信仰に挑戦するからです。正しい訳の方が読者にとって一意に信仰的という保証はありません。

複数の訳を並べて、多くの訳が賛同している方が正しい訳だと思われるかもしれません。しかし残念ながらこれはうまいやり方ではありません。聖書翻訳においては時に多くの翻訳が同時に誤訳してしまうことがあるからです。正しい訳に多数決で辿り着けるという保証はありません。

複数の訳を並べて、突飛な訳をしている方が正しい訳だと思われるかもしれません。しかし残念ながらこれはうまいやり方ではありません。聖書翻訳においては時にうっかり誤訳したりするからです。正しい訳にオリジナル性で辿り着けるという保証はありません。

バランスをとる

いくつか訳を引っ張り出すことは、自分にとって選択肢が増えることですが、どれかを切ったり選んだりすることは避けた方がいいでしょう。人間の認知というのはかなり公平に保つのが難しいものです。複数の訳文を並べればきっと自分の読みたい訳の方に振れていってしまいます。複数の意見が存在することを受け入れて、自分の頭の中でバランスをとっておくことをおすすめします。

注解書を読む

その箇所の解説を読んで意見を整理してもらいましょう。十分詳しい注解書を見つけられれば、訳が複数の意見に分かれている理由が書いてあるはずです。

原語が扱える場合

あなたが、ギリシャ語やヘブライ語を扱えるとしましょう。そして、クミと同じように、聖書の専門家・学者ではないとしましょう。さて、この場合、いったいどのくらい確信が持てればある訳よりある訳の方が優れていると意見できるのでしょうか。

どう考えても古典の翻訳は専門技術です。そこに物申すにはかなりの注意が必要なはずです。

クミは聖書に関してきちんと学問を修めていません。学部は数学科を卒業していて、神学校には一年半ほどしかいませんでした。ですから以下に書くのは、素人でも「最低限このくらいはしないと訳に対して意見してはいけないだろう」と想像がつく程度の条件で、要するに最低ラインです。正直に申し上げて、かなりカジュアルに「この訳は間違っている」「この訳の方が優れている」という意見を見聞きすることが多いので、それへの苦言だと思っていただいて構いません。

本文批評上の問題

それぞれの底本を確認できる場合、訳の違いが原文の相違によって生まれているということは比較的容易に確かめられると思います。しかし、その場合でも私たちはより新しい底本の方が正しい可能性が高い、と言うにとどめるほかありません。間違っても本文批評学を修めずに自分の意見を反映させてはいけません。

訳語の選定

原語と日本語の単語ごとの対応が比較的明らかな文において、ある単語がさまざまに訳されていると分かる場合を考えましょう。

まず、訳のバリエーションにおける日本語の違いを明確に説明できますか? それは自分のネイティブ感覚だけではだめです。明確に言えない場合は辞書を引いてください。場合によっては書き言葉のコーパスを引く必要があるでしょう。

そして原語の辞書ですが、多くの場合、語義がひとつということはないでしょう。複数ある語義のどれを意識して訳文が作られているか想定できますか? また、語義がひとつしか載せられていない場合、そもそも用例が少ないかもしれません。他の周辺の単語の意味からどうしてその少ない用例がそう解釈されたか説明できますか? そもそも新約聖書の用例しか載せていないような辞書では太刀打ちできないでしょう(しないでください)。十分な情報の載っている辞書を用意しましたか?

そもそも本当にその辞書の記述はあってますか? 用例に聖書からの引用の一例しかないのに語義になってたりしませんか? 誰かが読み込んでしまった解釈の訳文が辞書に入り込んだりしてませんか?

田川建三氏が「ある時、ある辞書のある項目の説明が何かおかしいと思い、用例を全部当たってみたらやはり間違っていた、ということがあって、自分もそろそろギリシャ語ができるようになったと思った」というようなことを言っています。すいません、まだクミはギリシャ語できません。

語義の選択肢を把握できたとしましょう。なぜその語義を選ぶべきか、説明できますか? 一文の解釈として、パラグラフ全体のあり方として、その書の筆者の書物全体における意図を汲み取って、考古学的な知見を反映して、当時の社会情勢からして、その語義の方が正しいと言える根拠はなんですか? 根拠がないものはただの感想です。

クミとしては感想もよくツイートしています。読書においては感想も大事です。しかし根拠のないことでその方が正しいと言わないように気をつけています。

文の構造や全体の意味

構文に関わることで意見が割れることもあるでしょう。接続詞の使い方は? 筆者は時制をどのように使っているか? 筆者の第一言語の影響は? そもそもどういう構文の可能性があり得るか列挙できるでしょうか?

少なくとも詳しい文法書の(決して初級の文法書ではなくて)当該の文法項目についてよく理解すべきでしょう。個別の箇所について解説している場合も少なくないはずです。というかこの時点で注解書をいくつか開いておくべきでしょう。訳文に意見するなら「この文法項目は知りませんでした」では済まされません。

神学的な立場

上でガラテヤ3:22を引きました。こういった箇所の訳文に関わる議論では、パウロの議論全体を意識する必要があるのかもしれません。配信でも触れているHaysの例の本では「この本はこの箇所をこう訳すべきというような本ではないよ」とも書いてありますが、いずれにせよそういった議論を踏まえないと訳語の相違が生じている理由をうまく説明できないはずです。

お手上げになることも多い

クミ自身の経験から言って、私程度の技術ではそれぞれの訳文のどちらが正しいなどとは言えない場合がほとんどで、というか多くの聖書翻訳の訳文に「どうしてこういう訳にしたのか」が書いてないので、訳者の意見に反論することがそもそもできないのです。

さらに言えば、注解書を開いて書いてあることと言えば「複数の意見があるが、筆者はこう考える」「こちらの意見の方が正しい蓋然性が高い」「積極的には同意できない」「正直よく分からない」「言い切れるやつの気が知れない」みたいなことが書いてあります。この状況でクミができるのは「本当に文字通り素人で恐縮ですがこっちに一票入れておきますね…」までです。

まとめ

原語が扱えないときは、それぞれの訳文を公平に扱いましょう。原語が扱える人は、謙虚さを忘れずに十分に調べてから根拠をあげて訳文に意見しましょう。自分より遥かに時間をかけて聖書を研究している人間がその訳文を作っていることをことをお忘れなく。

日本語以外の現代語訳について

外国語で読むとちょっと面白い

一般的な現象だと思いますが、第一言語で読むよりも第二言語で読む方が注意深く読むことになります。多くの日本在住日本語話者にとって第二言語は英語だと思いますが、別に何語でも構わないので自分にとっての外国語で読むと結構新鮮だと思います。

原語により近い言語?

新約聖書の翻訳であれば、日本語の翻訳よりも、同じインド・ヨーロッパ語族の英語の方が翻訳が容易であって、英語の方が原文に近い訳が可能なのでしょうか? そんなに簡単にはいかないと思いますが、前置詞の構造など、逐語訳がしやすいのは事実でしょう。

ただし、特定の箇所について英語の訳の方が優れているかは結局のところ個別検討事項であって、要するにギリシャ語を知らないとやはり何も言えないと思います。旧約聖書、つまりヘブライ語についても同様です。アラビア語訳が読めればそちらの方が原語に近いような気もしますが、結局ヘブライ語が分からないと何も言えません。逐語訳はしやすいと思います。

古い翻訳の底本はやっぱり古い

英訳の定番、King James Versionから引用しましょう。日本語の聖書翻訳より遥かに古いために底本の文章がかなり違います。

And lead us not into temptation, but deliver us from evil: For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen.
Matthew 6:13 KJV
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。
マタイによる福音書 聖書協会共同訳

主の祈りと呼ばれる文言の聖書箇所ですが、現代ではこの節の後半が後世の挿入と考えられています。こういう箇所がままあるので古い翻訳には注意してください。詳しくはこちらの動画で。

おわりに

様々な翻訳に出会うことがあると思いますが、ひとつひとつの縁を大事に、そして正しさを自分の側に引き寄せることのないようにしてください。良い聖書タイムを。


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