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喰うて、食われて

鶏を喰うた。
命を取って、喰うたのだ。


1週間ほど前、隣町の養鶏場から廃鶏が出るというので、友人と車を走らせて貰いにいった。

養鶏場では、一年に3回ほど鶏の入れ替えをする。卵の出が悪くなった年嵩の個体や、鶏コミュニティの中で弱い立場にある個体などが廃鶏として出されるという。

「卵を取るの?」「お肉にするの?」と聞かれて、僕たちは、お肉にします。と答えた。

2羽の鶏をコンテナに入れて持ち帰った。
車の中で彼らは静かにじっとしていた。

翌日に食べる予定だったので、原野の家の庭で一晩を越すことになった。野生動物(特に近くでキツネをよく見かける)が心配だったので、コンテナの上に重い廃材を載せて対策とした。

翌朝、コンテナを覗きみると大きな卵が二つ。
彼らの足元に、とんっ、とあった。

大きな卵

まったく予想だにしていなかった卵との出会い。やるじゃないか、と心の中で呟いた。

その日は天気が悪く、翌日も卵を産むかもという期待もあり、絞めるのは延期になった。

持ってきた自宅の生ごみに糠をふりかけて置くと、すごい勢いで食べていた。

なんでも食べるが、米が好き。贅沢な。


雨と獣対策として、即席の小屋を作った。

でも翌日も、その翌日も卵は産まなかった。
連日のように雨が降り。
その度に絞めるのは延期になった。

名前をつけた。
尾羽がないのが「ぼんじり」
尾羽があるのが「つくね」

左がつくね。みきがぼんじり。ちょっかいをかけている

あっという間に1週間が過ぎた。

僕は家を直す作業の合間に、食べ物をあげ、昼はランチを食べながら散歩する彼らを見る。

彼らの認識も少しずつ変わっていったのか、僕が近づくたびに足元に寄ってくるようになった。
小屋から出しても遠くに行くことがなくなって、日当たりのよい場所で気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。
気づくと、たまに家に入っていてびっくりすることもあった。
好奇心が旺盛で、そんな表情にどこか愛嬌がある。

このまま飼い続けるか、食べるのか。
友人と話をした。

卵は初日以来産んでいなかった。
エサや居住環境が十分でなかったのかもしれないが、そこに労力をかけることとを天秤にかけた。

残り2日。卵を産まなかったら食べよう、そう決めた。

そして、2日が過ぎて。
彼らは相変わらず平和な散歩を楽しんでいたけれど、卵を産むことはなかった。

最終日の朝

絞めて、捌く過程を多くは書かない。

気絶させ、絞める。
血を抜き、羽をむしる。
刃を入れて、捌く。

殺す。絞める。捌く。屠る。切る。
命を取る。
いろんな言葉がある。

殺す瞬間に、奇妙な使命感と、微かな憐憫と、まざまざと彼との間にある力の差を意識した。

とても暑い日だった。
血の匂いに引き寄せられ、ハエや蜂がブンブンと飛び回りはじめた。
急いで、羽をむしり、火を熾した。

もも肉、手羽先、胸肉、ササミ。
関節と筋膜を外すと、内臓が出てくる。
ハツ、砂肝、レバー、腸、そして小さな卵のカケラ。

捌くことは、知ること。
知ることは、豊かなこと。
細かな膝関節の造形や、胸骨と背骨に包まれた内臓の守り、砂肝に収められた食べられた内容物。
それらの美しさ、生き物の美しさ。

皮一枚で繋がる身体


内臓を串焼きにして、喰った。
空腹に、さっきまで動いていた心臓が飲み込まれる。
喰った。その言葉が肝に落ちた。

奥からレバー、ハツ、砂肝

夜は残りの肉で鍋にした。
骨から出汁をとり、煮込んだ。

若鶏とは違う、硬くて噛むほどに煮込むほどひ味わいのでるスープと食感。

両手で噛みちぎりながら食べた。
これまた、喰う。

人間の本質は、生き物の本質も、喰うことなのだ。
喰うて、喰われて、生きているのだ。


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