【ショートストーリー】アメオトコ
「────そういう訳で、常にこんな格好をしてるんですよ」
傘の上で跳ねる無数の雨粒は私の心を表すかのように重苦しい音を立てている。そんな心情とは真逆に、隣に立つ青年はまるで軽快なリズムを打ち鳴らしたように陽気な笑顔を見せている。そのいで立ちも話す内容も意味不明。一体なぜ彼が私に声を掛けてきたのか、私はまるで理解できずにいる。始まりはほんの数分前の事だ。
どんよりとした灰色の空から降り注ぐ鬱陶しいほどの大雨。このどんよりした天気に合わせたようにグレーのくたびれた背広を着た私は、深い溜息をつきながら傘を手に営業回りをしていた。
繁華街の道路には無数の車両が雨水を弾きながらひっきりなしに走っている。その見慣れたいつもの景色と音を聞いているだけで、徐々にイライラが募ってくる。
「……変わり映えのない、ちんけな毎日だ」
来る日も来る日も外回りをしては、見慣れた顧客に対していつも通りの営業スマイルを貼り付けて折衝を行う。いつも通りの、決まりきったお約束のやり取り。別段顧客を不満にさせることもなければ、大して彼らから感謝されることもない。ただそこに自分がいて、淡々と業務をこなしていく。そうやって歯車の一部となって仕事を回し、適当な給料を貰いながら限られた時間で心身を癒し、また働く。ずっとその繰り返しだ。
「失礼、もしかして道に迷われました?」
こんな陳腐で味気のない生活が10年近くも続けば、時折頭もおかしくなって然るべきだ。もっと別の人生があるだとか、もっと違う事にチャレンジしてみようだとか、そんな事を考える余裕もないまま今の人生(みち)を愚直にひた走ってきた。単純でつまらない、ちんけな一本道。
「すみません。俺の声、聞こえてますか?」
ああ、鬱陶しい天気には鬱陶しい幻覚も見えてしまうものだ。だってそうだろう。真っ赤なレインコートを着た見ず知らずの怪しい青年が真横を歩きながら、見知り尽くしている営業ルートを歩く私に向かって“道に迷われました?”だと……。一体どういう状況だと言うのか。やはり疲れているのだろう。私はこの幻覚を振り払おうと歩幅を広げて進み続けた。
「失礼、お兄さん。一旦足を止めましょう」
「なっ────!?」
不意に引っ張られた腕に吸い寄せられる形で後ずさりをした。突然の事に驚き困惑するも、私の腕を掴むこの奇妙な青年が幻覚ではなく実在しているとそこで認識した。
「なっ、なんだお前! いきなり何するんだ!」
反射的に彼を睨み怒鳴りつけるも、すぐに違和感に気が付いた。
「…………っ!?」
大雨が続く繫華街にいるのは、いつの間にか私と赤レインコートの青年の二人だけになっている。先ほどまであった人気は一切なくなり、大通りをけたたましく走っていた車両もすべて消え失せてた。まるで自分たちだけがこの場に取り残されたような不気味な景色にヒヤリとした恐怖感を覚える。
「な、なんだよこれ…………?」
「まぁー説明するとややこしいんですが、要は道に迷ってしまったのかと」
異常な光景を前にすっかり固まってしまった私の隣で、青年は飄々とした態度でサラッとそう口にした。
「ほらっ、雨が降っていると視界が悪いでしょう? そういう時って突然見知らぬ所に行ってしまいがちなんですよ」
そんな訳あるか。大体この繁華街自体は見知った場所だ。見知り尽くした場所なのだ。見知らないのは人気が一切失せたこのゴーストタウンのようなこの状況と、真っ赤なレインコートなんて被っているお前の存在だ。
「お前……、誰だよ」
「それも説明するとややこしいんだけどー、要は道案内人です」
気恥ずかしそうに頬をかきながら笑う青年は意味不明なことばかりを述べる。
「…………なんで合羽」
「それはー、雨だからですね」
そういう事じゃない。いい歳した奴が真昼間に真っ赤なレインコート。傘を差すだろ普通。まるでマントを羽織るように着こなす姿は何かのコスプレかと思うほど奇抜な格好に見える。
「まぁ俺が活動する場所はいつも雨が降っているから、常に合羽姿なんですけどね」
「はぁ……?」
相変わらず意味不明な会話を続ける青年はこちらに向けて屈託のない笑顔を向け続けている。
「……あぁ、アレか。出かけるときに限って雨を呼び寄せてしまう類の」
「あーいえいえ。そういう類のアレとは違うんですけどね」
「そーか。アレじゃないのか」
「ええ。アレじゃないです」
「…………」
そのバカみたいな会話と一切崩れることのない彼の笑顔に、この異常な状況が半ばどうでもよくなってきた。もっと言えば、私が常日頃から募っていた不安やイライラも不思議と消え失せ、なんだか不思議と清々しい気分だ。ああ、きっと目の前にいるこの奇妙な青年の仕業だ。彼にすっかり毒を抜かれてしまったようだな。
「あっ、もう大丈夫みたいですね」
「え? 何がだよ」
「帰り道、すぐに見つかったようで」
青年の指さす方を向く。通りの奥を眺めると、向こうは雨が一切降っていない。未だ降り続くこちら側との間にまるで境界線が引かれたような、これまた異常な景色だ。
しかし、そこに不安や恐怖は感じない。雨上がりの空は清々しいほどに綺麗で爽快だ。
「いやぁ、眩しいほどに晴れ渡ってますね向こうは」
「……だな。あれが帰り道なのか?」
「ええ。あれに向かって、ただ真っ直ぐに進めば帰れますよ」
「そうかい。まぁ幸い、真っ直ぐ突き進むのは得意だ」
「はは、そうみたいですねっ」
「こいつ。知った風な口を聞きやがって」
どこまで本気か分からない彼の話を、どこまでも底抜けに明るい彼の顔を見ながら聞いている。どうにかしてその笑顔を歪ませてやりたくも思うが、たぶん無駄だろう。彼は決して笑顔を崩さない。そこには何か信念染みたものさえ感じる。コイツはきっとそういう類の奴だ。
「お前、むしろ“晴れ男”なんじゃないのか。色んな意味で」
「あーそれはないです。今まで晴れた試しがないですから」
「マジかよ。それが本当ならもう呪いの域だな」
「ええ。だからいつかこの目で見たいんですよ。俺の頭上一面が青々と晴れ渡っている景色を」
その言葉を発した一瞬だけ、彼は自身が指し示した帰り道を羨むように見つめていた。どこか叶わない夢を追い求めるような、そんな儚げな目だった。
「……なら、私も追い求めてみるか。まだ見たことがない景色ってやつを」
「おっ、いいですね。それってどんな景色なんです?」
「さぁな」
興味津々に問いかけてくる青年に目を合わせることなく、私は帰り道へ向けて歩を進め始める。面と向かってコイツに語ると何となく負けた感じがするのと、些かの気恥ずかしさが混同した結果だ。
数十秒後にはこの奇妙な出来事も綺麗さっぱり消えている事だろう。雨上がりの繁華街は通行人で溢れ、道路には無数の車両がひっきりなしに走っている。そんないつもの見慣れた景色に戻る。
だけど、ここで変化した心境は変わらず持ち続けていられる。それさえあれば私はもう自身の道に悪態をつくこともなく、ましてもう二度と迷ったりなどしない。
だから、道を教えてくれたこの奇妙な案内人に少しくらいは感謝をしてもいいだろう。
「まぁ、取りあえずは──────」
私は西日が差し始めた帰り道を見据えたまま後ろの彼に軽く手を振り、屈託のない笑顔で自分の世界へと帰っていった。
「それを見つけるところから始めるとするよ」