現代思想の冒険 竹田青嗣 1992年
この本には近代思想・現代思想について書かれています。絶対的な善や理想を探し追い求めていく時代から、実は日々の営みが心の中の善や理想を絶えず作り出しているという気づきへの変遷が表されています。
太字部分は本の中からの引用です。
「思想は、さまざまな人間のさまざまな考え方を単純化(原型化)しようとする努力なのである。」
人は生まれてから周囲の人間関係から社会性を学び、生きる意味を考え、自分の居心地のいい居場所を探っていきます。考えは言葉によって成り立つたっているため、言語の意味や文化の影響を受けています。
「わたしたちはこの社会に生きるうち、さまざまなものに成る(自己実現をとげる)。それを実質的に支えているのは、概念の網の目としての<社会>といういわば“言葉の国”である。どんな人間にとっても<世界像>はすでに社会の中に存在している一定の<世界像>の中から選びとられる。」
影響を受けているはずの文化は絶対的なものではなく、客観的な秩序(実在の秩序)を持ったものでもありません。
「ソシュールの言語学により明らかになったのは、まず客観的な事物の秩序(実在の秩序)があり、それを言葉が呼び当てるのではなく、むしろ人間の言語行為が、いわば網の目のように絶えずこの秩序を作り上げており、しかもまた絶えずそれを編み変えていくのだということである。」
「ボードリヤールは『象徴交換と死』という書物において次のように書いている。
労働が終わり、生産が終わり、経済が終わる。
これらすべてを終わらせるのは革命ではなく、資本自身なのだ。資本が生産様式による社会的決定を廃棄し、価値の商品形態を価値の構造形態に置きかえる。この構造形態がシステムの現在の戦略全体を支配している。」
人間は社会の中で生きる意味を探りながら理想を目指しています。
「人間の生は一般的には<社会>という形式的条件によって可能になっている。だが<社会>が人間の生にとって永遠の桎梏(しっこく:手枷足枷)であるなら、<社会>という原理が存在する限り生は否定的なものとならざるを得ない。」
「<社会>は完全な理想には決して到達しえないかもしれないが、それにもかかわらず、人間は、自己の関係本質を実現し得る「可能性」を持っているし、また一方で人間が<社会>を永続的に改変してゆこうとする努力には、はっきりした意味も根拠もある、とわたしには思えるのである。」
人には社会の一員、‘組織人’としての心と、ひとりひとりが持っている魂のような、’個人‘としての心があります。いずれの心も何らかの形で現れて繋がりを求め、交流して編み変え、成長しているように思えます。
「キルケゴールは、決して<社会>や<歴史>一般の問題に還元できないような、人間の固有の生の契機をはじめて思想として取り出してみせた。人間は誰も決して他人と交換できないただ一度切りの生しかもてず、そのため自分の内部だけで処理しなくてはならない固有で絶対的な課題を負っている。キルケゴールが示した人間のこういった契機を、わたしたちは<実存>という言葉で呼んだ。」
「人間の生の意味は、幸せや理想に至りつくことではなく、ただ、<実存>し得るということにある。<実存>とは、人間がつねに現にある自分のありようを了解し、そのうえで新しいあり方で生きうるという「可能性」を手ばなさないことだ。自由と<実存>とは、この意味で同じことの別の表現にすぎない。」
「ふつう、人間が日常性を超え出ようとするような契機として現われる欲望は、「美」「エロス」「ロマン」「イデア」などの領域の欲望として現われる。
自分の才能に可能性を見出した人間は、芸術のために一生を棒に振ってもいいという心ばえでそのことに賭けることができる。つまりこれらはいずれも、いわば日常を絶えざる非日常への可能性そのものへと化そうとするような欲望のあり方なのである。」
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