【ノエルギャラガー・ライブレポ?】20231204 NGHFB@大阪 原点回帰とブレない主軸
ライブって難しい!もちろん、僕は演奏する側ではなく観客だが、それが難しい。
何の問題も無いし、心躍る体験には違いない。スケジュールを割きお金を使って、リアルタイム、同じ空間でアーティストを聴き、観る。僕が狼狽えてしまうのは、アーティストを聴き、観た鼓膜や視神経の先である。
限られた時間、瞬間にて、電気信号をハートに流す?ブレインに流す?
つまりは情景の洪水に圧されるとき、考えるか、感じるかの選択。「考えるな、感じろ」なんて言葉もあるが、僕はとかくこのスイッチングに苦心する。
ブレインで咀嚼するほど、瞬間は無味となる。ハートで味わうその感情は、時間に流されてしまう。90分間の演目は、その迷いの連続体だ。
NGHFBって?
ライブの90分がそうなら、彼の30年間も同じだったんじゃないか。傲慢な僕のブレインは、目の当たりにしている緻密かつ大胆なパフォーマンスを咀嚼するや否や、そんな解釈を吐き出していた。
Noel Gallagher's High Flying Birds (NGHFB)は、90年代のロックシーンに新しい風を吹き込むどころか、ごっちゃごちゃにかき回して全然違う風景にしてしまった怪物バンド・oasis(1994デビュー〜2009解散)のノエルギャラガーが、10年以上続けているソロプロジェクト・バンドだ。
今年6年ぶりにリリースされたスタジオアルバム「Council Skies」は原点回帰をテーマとしており、メジャーキャリア30周年、還暦を見据え、自身のソロ活動を満遍なく総括するものに仕上がっている。
参戦したわけ
新譜を引っ提げたNGHFBのツアーの1日程が、僕にとって人生初の洋楽ライブとなった12月4日、大阪フェスティバルホールだった。
海外の大物アーティストって、世界ツアーといっても様々な面で限界がある。日本で言えば通常、東名阪を1、2公演ずつ、とかしかヤってくれない。箱のデカさにもよるけど当然、発表後程なくして完売、である。
NGHFBとて例に漏れず、6月末の一般発売から、7月下旬には全4公演完売。その頃の僕はといえばようやくoasisの(兄弟ゲンカとか、舌禍の部分でなく)作品がヤバい!とハマっていた。ましてやNGHFBの来日公演なんて、その予定すら知らない。
解散後のソロの活動にも(当然弟のリアムと合わせて)触れだし、1アーティストとして楽しむようになったのはここ数か月で。1週間前ぐらいにツイッターで「ソウルにいるなぁ」と何とはなしに流し見すれば、前日の12月3日になってやっと「ノエル来日中」に驚いたぐらい。大阪公演の4日は丁度市内での散髪と献血を予定していたので、参戦したくなって公式サイトを覗けば案の定「SOLD OUT」の文字。まぁ現地の空気ぐらい浴びてみるか、と、それだけでもワクワクしていた。
当日朝、今日いける人はどんなにワクワクしているんだろうな、と検索窓に彼の名前を入れると、残念なことにキャンセルしなければいけなくなった方の定額譲渡オファーがちらほら。
逡巡は短かった。何が何でも、という大ファンではないが、以前狙っていた他アーティストの来日公演がコロナで中止になった経験を踏まえ、希望を申し入れることにした。
その方には非常にスムーズなやりとりで話を進めてもらえて、初心者として有難い。
ゲットしたのはS席、3階3列目。1階の熱気に混ざることはできないが、ステージ全体が視界に収まる距離の、自分にとって丁度いい位置にあった。
公演本体以外について
内容に触れる前に、公演そのもの以外の二つについて述べておきたい。
まず1つ目が、会場の「フェスティバルホール」。朝日新聞社が登記上の本社としている大阪本社ビル・フェスティバルタワーの下層部を占め、地下鉄肥後橋駅・京阪渡辺橋駅直結、新旧の文化施設が集積する中之島要部の好立地である。周囲の景観も石造りとガラス張り、情緒的な一般道橋と機能的な高速道高架、といった対比を、隔てる水流が際立てておりかつ、南北での対称性が緩やかながら感じられる。
玄関あるいは地階からエントランスを通り、組閣の写真撮影をしていそうな(と表すのが一番伝わりそうな)赤絨毯の中央階段を上っていけば、すぐに入場口がある。
そこが客席としての1階の高さなのでもっと上らなければいけないが、吹き抜けている外側の空間には小さな光源が沢山吊るされていて、面倒や圧迫よりむしろ高揚とロマンスを予感させてくれる。
親切なアテンダントさんの案内で座席にたどり着く。側面にはミュージックホールらしい凹凸、天井はうんと悠長なウェーブを描き、今からロックを聴くのが不思議なぐらい落ち着いた雰囲気である。
2013年に開館した二代目フェスティバルホールは、「音の良さ」と「フェスティバル会場であること」の両立に拘って設計されたそうで、音の良さの指標となる残響時間が2秒と高水準を達成しているらしい。そして同時に、空間の堅苦しさは何1つ感じない(ロックンロールを前にして感じさせては致命的だ)。実際、各ジャンルの音楽家からの評価は再建の前後を通じ極めて高いし、ノエルが会場に選ぶのも完成以来3回連続である。
ライブ開始までのソワソワする時間、2つ目がPhil SmithというツアーDJの、ライブ前のストリームだ(プレ・ショー・DJとかいうらしい)。oasis時代からツアーに同行しているらしい彼のプレイリストは、確かノエルのインストと、他ロック・ポップス。トムとジェリーのopみたいな騒々しいオーケストラもあったっけ。
決して派手なパフォーマンスで沸かすことはせず、プレイリストを流すだけのシンプルなものだった。ただ「喰わないが惹きつける」器用さが心地よく、退屈せずに楽しんでしまった。長らく付き合っているのも納得である。
そうして、登場前最後にはBeatlesの2曲「SGT. Pepper's Lonely Hearts Club Band(Reprise)」「Tomorrow Never Knows」のマッシュアップ。oasis、ひいてはイギリスのロック・ポップスのある種原点でもあり、また特別な、「ヤバい」時間の幕開けを告げるにふさわしいトラックである。客席全体に(多分Beatlesを知っていても、いなくても)そろそろか、という期待が高まってゆく。
Turn...というジョンレノンの声が狂いそうなほどリフレインしたのち、ようやっと歌詞を紡ぎだした頃には、期待が歓声へと結実し、そして…
「№EL GALLAGHER'S HIGH FLYING BIRDS」
白文字のロゴがデカデカと、点滅しそして…点灯!
いよいよライブ本編が始まる。
セトリや、況して詳しい各曲についての感想は、それこそ筋金入りのノエルファンがライブレポを上げているだろう。ソロ曲のほとんどが未聴の状態で飛び入りしたような僕に語れることはあまりない。だから代わりに、僕なりのライブの印象や雑感を、時系列や正確さにこだわらず述べてみたい(訳:いい加減なこと言っても許してね)。
入場ジングルがそのまま「Pretty Boy」のイントロであり、聴きなじみのあるアップテンポが拍手喝采をクラップに作り変えてゆく。
この曲はアルバム「Counsil Sky」の2曲目。1曲目の「I'm not giving up tonight」では人の手のぬくもりがするミドルテンポと、恋人に本音を語りかけるような歌詞とでアルバムのコンセプトが伝わり、その次に、「Pretty Boy」の刻むたびにテンションの上がるBPM158が来るというわけだ。
特別なメッセージソング、ソロキャリア史に輝く名曲といった感じはしない。「最初に作ったから、最初のシングルとしてリリースした」そうで、確かにシックな纏まりのアレンジはキャッチーでシングル向きだろうが、それ以上ではない。でもこの曲には「名曲性」とは違ったパワーがある。
U2「Vertigo (原子爆弾解体新書の1st)」、Beatles「Back in the USSR (the Beatlesの1st)」、Clash「Brand New Cadillac (London Callingの2nd)」、あるいはoasis「Hello (Morning Gloryの1st)」と挙げたら、キャッチーなサウンドとテンポ感をもって聴き手を「その気にさせる」タイプの曲というのが伝わるだろうか?
すなわちこれを一発目にヤるというのは、聴衆を見事に「その気にさせ」にきたってこと。
印象的なのは、「今日のライブはこんなに凄いですよ」と言わんばかりに、楽曲のパワーに乗せて、各々が順次「開演」してゆく。イントロでひとしきり湧いた歓声に応えるように、颯爽と現れたノエルがエレアコを鳴らし、最初の歌声が響く。他の楽器隊も音を乗せていき、サビで一体となった爆発力を見せつける。
ホールの音の良さとか、生演奏の迫力とかも込み込みで、ひとまず1曲目で分からせてくれる。客席の熱量だって、初っ端から最高潮に達するというものだ。
洋楽のライブがそもそも初参戦である僕などは、すっかり圧倒されてしまっていた。
リズムトラックがシームレスで続く2曲目は、アルバム表題曲の「Council Skies」。
張り詰めるようなスリリングと、前曲を引き継ぐダンサブルとを兼ね備えた演奏、歌唱。Banglesみたいに神秘的な女性コーラス隊、ROXYS (※レコーディングメンバーのPiney Girに代わってSamantha Whatesが加わっている)がここで最初の出番を迎え、全メンバーのパートが始動したことになるわけだ。
バンドの一体感…いや、ステージのデザインやバックムービー、カラーレーザーに至るまで、完璧な構成をここにきて確信させてくれる。
上手からピアノのMikey Rowe、キーボードのShannon Harris、ドラムスのChris Sharrock、マンチェスター・シティ監督のJosep Guardiola(!立ち絵)、コーラスのROXYS (Army Ashworth、Samantha Whates、Emma Brammer)が弧状に、中央に並ぶギターのGem Archer、ギター・ボーカルのNoel Gallagher、ベースのRuss Pritchard、キーボード・コーラスのJessica Greenfieldを囲んでいて、ノエルとそれぞれの間には音で繋がる線があるみたいで。そしてバンドの立つ平面を下支えするかのように、色とりどりの花が散りばめられている。
一見、統一性のない花々は、カラフルなレーザーが踊ると一変、それぞれの色相に呼応するように、バンドを彩り始める。そして未来を感じさせる洗練されたレーザーの仕掛けはまた、しばしば古臭いバックムービーのエフェクトともじゃれ合う…そんなステージのレイアウトである。
そう、僕の席は3階3列目。隅々まで凝ったステージ全体が視界に収まる、丁度いい距離である!
ノエルの目尻の優しげな皺までは見えない代わりに、それぞれの曲の演目としての全体像がダイナミックに入ってくる。だからこそ一瞬一瞬の情報量に置いて行かれそうになってしまうほど、なんだけど。
カウンシル・スカイズ〜ノエルの故郷
1、2曲目がシームレスに、各メンバーの始動とバンドとしての一体感をまず浴びせてきたことは説明したが、それぞれの味わいは対照的である。
フィーリングで聴衆のテンションを掴んでくる「Pretty Boy」に対して「Council Skies」は、表題曲であることからもわかる通り、物語のはっきりした歌だ。
題名はCounsil Estate(≒雇用促進住宅)から見える青空って意味あいで、同郷作家の作品名に着想を得ているとともに、彼の育った環境そのものでもある。
特別な女性との幼い出会いを、決して暗くはない言葉で、それでも淡々と叙事するような歌い方。語られる過去と今と未来と、それから交錯するようで違和のない不気味なリズム。
僕にはこの曲がどうにも引っかかって、ライブから帰るや否やヘビロテし始めた。そして勢いで買ったアルバムの、故郷マンチェスターで撮影されたアートワーク一枚一枚をストリートビューで辿ってみることにした。
ダウンタウンであるピカデリー駅から、国鉄バクストン線を南へ。最初に停まる郊外駅のレブンシュルム駅からさらに南のバーナージ地区にかけての、労働者階級や移民の多く住む貧しいエリアには、幼少期ギャラガー兄弟のエピソードが多く集まる。
赤レンガのいわゆる「邸宅」の佇まいに錯覚してしまうが、この建築は二世帯建ての古い公営住宅。文字の取れた公民館の壁、舗装が剥がれた駅前の歩道、あちこちの落書き…とかく、マンチェスターというバカでかい工場街の郊外にして、労働力の貯蔵庫のような場所である。
ソングライティングの主軸
ノエルのソングライティングは「僕は街で暮らしていて、どうやら抜け出せそうにない(Rock'n'roll Star)」といったものに始まり、一貫して「都市の情緒」と「個人の情緒」の二重性…時には対峙、時には呼応…を描いている。「people」「we」「they」「some」と印象的に使われる複数形の呼称は、1人の視界にある強大な何かだったり、目まぐるしく昼夜を繰り返す都市の鳥瞰だったりと、とにかく「僕と君」を超えた情動を半ば強迫的に語るものだと言えよう。
この二重性は、マンチェスター郊外の理不尽とともに、彼はまた暴力的な父親という理不尽にも常にさらされてきた経験を反映している。しかも彼は、家庭としては離婚、すなわち暴力からの避難に成功したにも関わらず、しばらく父親の勤める工場で働くという「妥協」を選んでいる。勝利でも敗北でも逃避でもない、妥協。まさに抜け出せない街での暮らし、終わらない個人の毎日、そのもの。
表現のスタンスはまた、サウンドでも一貫している。
大学で齧った知識だが、1930年代のニューヨークを訪れた建築家、ル・コルビュジエが「マンハッタンは、石と鋼のホットジャズだ」と記している。戦間期アメリカの、産業の多層化の台風の目にあって、トラムのラトル音、地下鉄の轟音、工場の打撃音といった異なる文脈の無関係なリズムが重なることで1つの都市を作動させ、その実感が黒人たちにシティ・ジャズを奏でさせる、という主張であるが。
oasisのサウンドの層の重なりもまた、個に対する都市の強大さを思い知らせるかのごとく。直接的には都市の喧噪をSEとして数多くの曲で取り入れているし、リアムや自身のヴォーカルを数で制さんとするようなギターのオーヴァーダヴ、インストゥルメントの数々は、決して2人称の語らいではなく、むしろ個性の没した烏合の衆の蠢きを連想させる。
それでも決して押し負けない彼らの声そのものに、個の強さを気づかされ、僕たちは毎日勇気づけられるのだ。
…失礼、ノエルのジャズ嫌いは知っているが、恐慌後の1930年代アメリカ・ニューヨークと、不況期の1980年代イギリス・マンチェスターに根差す2つの音楽に、僕は類似性を見出さずにいられない。
Counsil Skiesの不気味なリズム―打ち込みトラック、ベースに始まり、ドラムス、ギター、キーボード、シンセ、コーラスのそれぞれが、別個のリズムトラックのようにビートを刻む―とは、雇用促進住宅に暮らしながら絶え間なく聞こえてくる、表通りや駅、その先にあるダウンタウン、工場の喧噪の重なりそのものではないか。そして街から逃れる唯一の方法は、家の周りの限られた場所で淡い色をした青空を見上げながら物思いに更けることだった。
「ライブの90分がそうなら、彼の30年間も同じだったんじゃないか?」と序盤で言ったのは、最新曲から旧譜、oasis時代へと遡る今回のセトリのことでもあるし、彼の一貫性のなかに見える変化、「原点回帰」という試みそのものにまで繋がる話だ。
僕が90分のライブで呑気に感じていた、止まらない時間の流れの難儀は、ノエルのキャリアにおいても、デビュー曲で既に
とあるように、時間の面ではもちろん、濃さにおいても遥かに強烈だったのではないか、ということ。
リスナーへ、そして幼い自分へ
MCはまだ挟まずに、3曲目、4曲目、5曲目。掴んだ空気を、今度は思いっきり明るく温める。同じく最新アルバムから「Open the Door, See What You Find」「We're Gonna Get There in the End」「Easy Now」。これから先に怖気づいてしまっている人の隣に屈んで、歌いかけてくれるような、強く優しく、それぞれに重みのある応援歌。
ノエル本人の言葉では、oasisの1stアルバム「Definitely Maybe」に収録されている3曲「Live Forever」「Cigarettes & Alcohol」「Rock'n'roll Star」で、彼の言いたいことは言い尽くしたらしい。当然ビッグマウスだろうし、インタビューの時期すら調べてもわからなかったから今の彼の本音は況して、違っているかもしれないが。
原点回帰―それがoasis時代を含むとしても、含まないとしても―を掲げたアルバムの1曲1曲が持つメッセージ…もっと言うと、世界ツアーのセットリスト―30年間を遡るようなひと繋がりに加え入れた思いを想像しながら聴いてみる。
これらを
という、最初期の「3曲」と比べてみたら?
ウチとソトの理不尽にあって、カウンシルスカイの下の日向ぼっこで空想に自分を逃がしては、健気にも現実の諦めと希望を両立して見せたノエル少年。
都市の強大さに生きる個というテーマを軸に、反骨から慈しみへ、疑念から信頼へと、歌詞も、アレンジも変化を遂げたノエルのソングライティング。その30年間はバンドとしての成功と競争のプレッシャー、豪奢のトゥー・マッチと人間的なミスマッチ、そしてチームとの決別/解放…それらが休む間もなく押し寄せたロックンロールスターの四半世紀は、マンチェスター郊外に暮らした頃と結局変わらない、身に余る超音速。
ようやっとあらゆる点での余裕に恵まれるようになった2010年代を、のびのびとしたソロ活動に充てた彼は(それにしても外訪回数やリリース歴を見ると、休まない人だなぁと思うが)コロナ禍に直面してもなお、原点回帰という自分との向き合いを試みるポジティビティを手に入れ、リスナーにもその姿を惜しげなく見せてくれた。
だから…新譜の紡ぐ慰撫と激励は、リスナー宛てであると同時に、過去の自分への答えの提示にも見える。
歌詞については明らかだが、サウンドにも同じ意図を感じる。少年期には自分を押し流してしまいそうな都市の喧噪は、全てがアイデンティティにとっての敵であり、ただ多重に圧してくる「他」であった。その先には霞んで見えないが、きっと多分、未来という荒野が広がっている。
50歳を迎え、見てきた景色の方が広くなったノエルには、幼い頃からの自分のいた場所を順に望み、それらが何であったかを半ば知っている。悪意はあったかもしれないが、それだけではないし、そうシンプルでもない。
知っているがゆえに、聞こえてきた多重なリズムをフィードバックする表現を、自信をもって個性豊かな楽器や、自分と異なる女声にも委ねられているのだろう。
ライブレポの禁じ手;駆け足
自身のキャリアを、1枚前のアルバム、2枚前、oasis時代…と遡ってゆく。
バックスクリーンのくすんだ古めかしいムービーと、超音速を更に超える光速で時間をも走らすレーザー。
その2つを同じ視界に入れる不思議な時間旅行。花。
…さて、実は恥ずかしながら、本編最後にあたるoasis時代の名曲「Little by Little」までの間の10曲を、僕は歌えるほど知らないで参加している。だからあまり多くを語れないのだけど…
それでも現地で楽しむパフォーマンスにはいちいち痺れた。「In the Heat of the Moment」の朱に血が滾り、ダダダン!Thank You、のスタイリッシュさに惚れた。「Dead in the Water」では月夜の演出に心を委ね、弾き語りの凛とした音世界を愉しんだ。「Half the World Away」のチャーミングなアレンジで幸せになった。
そして、「Little by Little」…オリジナルよりも速いアレンジを、力強く歌う。
2002年のoasis「Heathern Chemistry」でノエルがボーカルをとった曲。リアムがしっくりこなかったので、とのことだが、「Acquiesce」の兄弟掛け合いといい、つくづく偶然すら楽曲のパワーにしてしまう魔法でもあるのかと思ってしまう。
という歌詞は、ソロキャリアに年を重ねる10年後の序章となったのである。
お決まりだからとアンコールまでの時間は短く、Bob Dylanのカバーを挟んで偉大なるアンセム「Live Forever」「Don't Look Back in Anger」を最後に披露。
「Little by Little」と合わせた3曲は全て、15年、20年も前の作品であるものの、彼のキャリアにおける加齢に何故か、寄り添い続けるものである。
アルバムの意図、セットリストの意図は、ソロ15年間、キャリア30年間を円環に繋いで区切りをつけるもの。そのフィナーレに、最初期からぶれないメッセージ、スタンスを、当時の作品を通して伝えてくれる誠実さのなんと心強いことか。それは僕のようなファンや、もしかすると30年来のファンが感じるであろうとともに、ノエル自身も自分の作品、キャリアに対して抱いているのではないかな、と思う。
この先まで見据えて
これだけの活躍を見せてなお道半ばという人生100年時代に、彼の感じる途方も無さは幾ばくだろうか?
「Don"t Look Back in Anger」の終わり際、彼は「また近々…来年会おう」と言ってくれていた。
1つの軸上に、本当に多くのマスターピースを重ねてきたノエル。原点回帰とは再出発への決意の固さをも含む重みをも秘めるが、その先に衰えや、まして焼き直しなんて感じさせない心強さの厚いライブだったな、と思う。
帰宅後、90分間を噛み締めながらアップルミュージックを開く。
「Pretty Boy」に寄せたセルフライナーノートには
とある。確かに、原点回帰と言いながらも、少なくともoasisの名曲たちからはかけ離れたソロ作品の良さの先端を伸ばし続けているということか。
そもそも、ライヴのセットリストにどれだけoasisの楽曲が入っているか、というのは僕らの大きな関心事で、極論を言えば例えば(大震災復興支援のチャリティで氷室京介がやったように)、「全部oasisの楽曲でライブをやります」と言えばとんでもない人数を集められるし、とんでもないお金が稼げるだろう。それに彼はメインコンポーザーであったのだから、後ろめたさすらなく。
それでもむしろ、ライブの主題をうまく伝えるためのよく練られたセットリストに、こだわりをもって1曲1曲、「NGHFBのアレンジで」挿し込んでいるところに、彼の意欲的で、働き者で、誠実なところを感じてしまう。
音響のいいホールでシンガロングは気持ちよく響き、天上のウェーブは映像のエフェクトを有機的に広げてくれた。
そんな環境をある種最高の形で味わえる3階3列目にて、2023年にNGHFBを聴き、観たことは本当に幸運だったと思う。
リアルタイムの衝撃波は一瞬で、ライブが始まってすぐには戸惑いもしたけど、こうして受け取ったものから文章を編む…ブレインの作業をしていてもなお、ハートには素敵な風景や、人生にわたる励ましが、反響。
3日経った今、ライブセットリストや最新アルバムは、加速度的に僕の毎日に染み込んでいる。
初めての洋楽ライブ体験を最高なものにしてくれたノエル、NGHFBの「次」に、そして受け取った物を携えて迎える自分のこれからの日々にも素敵なことがあるだろうな、と、期待が増すばかりである。