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五稜郭タワーと僕(Remade)

 旅行商品に組み込まれるような函館、つまりは金森倉庫とか、湯の川温泉とか、函館山とか、そういうのが余所行きのカッコをした函館だとしたら、方言のような、勝手口をくぐるような、身内だけが知っている函館というのを、僕はいくつも挙げることができる。これこそが、土地を地元だと胸を張って呼ぶことができる証ではないだろうか。
 例えば、駅に向けて減速する汽車の車窓に見える「はまで式」の文字。例えば、本町交差点の掠れたCMソング。先程観光名所に数えた函館山なんてのも、海峡通からのガス掛かった姿の方が馴染み深い。
 ならばここに、五稜郭タワーを並べて置いたらどうだろうか。玄関から展望台まで、市民には関係のない観光名所の一つだと、気にも留めないだろうか。ところが僕にとっては、五稜郭タワーこそが、函館に育った自分を想起させてくれる場所だったりする。

 五稜郭タワーは、名前の通り五稜郭公園の傍らに佇む展望塔である。扇形に広がる市街地の真ん中あたりから、真下の五稜郭公園が桜、蒼、朱、白と四季それぞれに色を変える様を、あるいは階をゆっくり一周すれば、函館山、湯の川温泉、横津岳、そして駒ヶ岳に至る360度パノラマを、望むことができる。目を凝らして、函館湾の出船入船や通りを走る路面電車まで、街の一瞬を切り取ってしまうのもよい。

 そんな函館のシンボルが竣工したのは2006年。僕は4歳で、丁度物心がついた頃。そして、祖父母が退職し、二人の生まれ育った函館に家を建てた頃。父の社宅に一家三人で住んでいた幼年期、僕に最初に函館を意識させたのは五稜郭タワーだった。金曜日の夕方、母の運転で車に揺られ、祖父母に会いに行く。函館新道を快走する車から、最初に見えるのが函館山で、次が五稜郭タワー。それらが見えた頃に、電話をかけるのが僕の役目だった。昂る心を抑えて、もうすぐ着くよ、と。当時の僕にとって五稜郭タワーは、優しいおじいちゃん、おばあちゃんと過ごす週末のプロローグだったのだ。
 到着した祖父母宅の二階から外を見ると、白い頭でっかちがひょっこりと顔を出している。母に抱かれ、心幼くも興奮して覗いた窓に映る塔の名前を、僕はしきりに訊ねたに違いない。

 父には単身赴任をさせ、函館の小学校に入学することになると、五稜郭タワーは一気に身近になった。もう幾年かで開校百年を迎える柏野小学校は、校歌にもその偉大さを謳う五稜郭公園を、贅沢なことに第二の校庭のように使っていた。街のお掃除大作戦。歴史探検隊。そりすべり。子供の隊列で徒歩10分もかからない特別史跡の常連だった僕等は、展望階の観光客にも一生懸命、手を振ってみたものである。
 そうして五稜郭やタワーと共にあった小学校も、六年の時が経てば卒業することになる。卒業式の一週間ぐらい後だろうか、学級カラオケが解散した後、何となく仲良しグループでかたまって、何となく帰りたくなくて。親には黙って、小銭を握って、僕等が目指したのも五稜郭タワーだった。六人で行ったうちの、僕を含む三人は、遠くの街へ引っ越すことになっていた。隣のこいつらと笑いあった街を、最後に一望しようか、なんて考えたのかは覚えていないが、五稜郭タワー、と六人の声がほぼ揃って、迷いなく歩みだしたのは覚えている。僕だけじゃなく、その場の全員にとって、幸せな小学校生活を見守ってくれていた塔は恩師みたいなものだったのかもしれない。

 札幌の中学校に通いだしてからは、五稜郭タワーは親友との再会の場所となっていた。壁沿いの駐輪場にチャリを置いて、土産屋を冷やかすのが彼と落ち合うまでの暇つぶしに丁度良かったのだ。ラッキーピエロで駄弁ったり、ともえ大橋を走破したり、とにかく男子学生が意味もなくやりそうな遊びをして回った後で、別れるのはやはり五稜郭タワー前。別に帰路の上に無くても、何故か解散場所は決まっていた。
 札幌に戻る段になっても、僕は常に五稜郭タワーを隣に感じていた。祖父母宅から気軽に行ける土産物店であるから、友人への函館土産はいつもここで買っていた。何人に配ろうか、今回はクセの強そうなものを選んでやろうか、と悩んでいるうちに、10分20分と時間が経っていく。そのうち、なんだか甘いものが食べたくなって、ソフトクリームを買い食い。長期休みが終わる前日の函館での時間が、少しだけ伸びるような気がした。

 去年の九月の上旬に、一年と四か月ぶりに函館を訪れた僕が、親友と再会を喜びつつ向かったのが五稜郭タワーだったのは、ゆえに至極当然のことだった。親友とは小学校卒業直後にタワーを上った六人のうちの一人である。彼女とは小学校一年生から六年間クラスが同じだった仲で、僕の最も古い友人ということになる。
 平日の夕方だったので特段待つこともなく、二人静かにエレベーターに乗る。ハコの中の慣れた照明演出。何も変わっていない、と言い切る自信はないけれど、多分低学年の頃、見学で行った時とさほど違わない、と思う。
 展望二階。土方歳三の展示などには大して目も向けず、二人して窓辺に歩いて寄ると、そこには予想通りの景色しかない。傾いた日が差し込む函館の街。高砂通の車の往来、輪郭を薄橙に光らせる巴の湊、街を統べ見守るように最奥に臥す牛。そして、ぐるりと廻れば目下に鎮座する五稜星。駅前の角から棒二さんの印が消え、市電の停留所が建て替えられてゆくけれど、このスカイライン、このランドスケープは変わらないでいる。函館は函館だ。
 公園の色が十四回移るのを見てきた五稜郭タワーはそれを、登るたびに確認させてくれる。それが、五稜郭タワーを、歳で言えば下でも、兄貴みたいに慕う理由。大層なことは普段思わないし、何なら上まで登った回数なんて指折るぐらいだけれど、多分そんなところだ。
 二周、三周。日が傾いていくのに気づかされながら、心ゆくまで。

 この先、スラングのような地元の証の一つ一つが、変わり、消えてゆくのだろう。時の流れという真理はさることながら、函館という街は、東京―つまり、日本という国の生き方―に時計を合わせた、ちっぽけな斜陽都市の一つでしかなくて、生きるのに必死で、それでも失いゆく未来しか見えなくて、何年、十年、あるいは何十年も耐え忍ぶうちにまるっきり変わってしまうかもしれない。
 僕が数十年前に生まれたなら、なんてヒーロー気取りのことを思わないではないけれど、街の一角や二角を磨き上げ、イベントの一つや二つを生み出すのに成功したとして、それでも時代の大風に打ち勝つことなんてできない大勢の頑張り屋の一人になるだけなのだろう。二十一世紀生まれの僕だって、未来を変えてやる、ぐらいの意気で函館と向き合っているつもりだけれど、多分、空元気でしかなかったと後で気づく。

 それでも、どんなに変わっていってしまっても、函館の地を、地元を覚えていなさい。五稜郭タワーだって建物だから、その時は―僕が死ぬより先か、あるいは後に―いずれ来るのだけれど、それまでは教えてもらいに、何度でも行こう。函館と僕を繋いでくれている五稜郭タワーは、こうしてまたぎゅっと、縄をきつく結びなおしてくれた。
 今日も多分、高砂通は駅の方へと車列を伸ばして、港では出船入船が汽笛を響かせていて、山はガスが掛かっているか晴れているか、そんなところだ。親友は、友達のままエレベーターを降りてきたけれど、まぁ今でも親友でいてくれていると思う。
 あれからまた、半年が過ぎた。次いつ函館に帰ることができるかもわからない。色々なものを置いてきている地元。思い出すら霞んでしまっていることに気付いて、不安になった今日みたいな日は、五稜郭タワーから撮った街の写真を取り出すのである。

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