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「車でお遍路」第36番札所 青龍寺(恵果阿闍梨を偲んで)

こんにちは、旅いこかです。

四国八十八箇所巡礼、弘法大師との「同行二人」の旅、36番目のお寺は、

独鈷山とっこざん 伊舎那院いしゃないん 青龍寺しょうりゅうじ


35番札所の清瀧寺から約14.1㎞、車で約25分の場所、

次は、険しい道程だった35番札所の清瀧寺を離れ、太平洋に向かって走る。
そして横波黒潮ラインに入り海の上を走るかのような美しい宇佐大橋をドライブ
その県道47号線をしばらく走り明徳義塾中学・高等学校の手前を山側に入っていくと突き当りが青龍寺しょうりゅうじ

実はこの「青龍寺しょうりゅうじ」の寺号、弘法大師が恵果和尚から唐(現在の中国西安市)で学んだ青龍寺と同じ名前つけたということは知られていても、第68代横綱「朝青龍明徳あさしょうりゅうあきのりが青龍寺と相撲留学した学び舎の明徳義塾高等学校の名から付けられたことは面白い。

「朝青龍」はこの「青龍寺」の石段でもっぱらトレーニングを積んだことが四股名しこなの由来になったという地でもある。
横綱になれたのも弘法大師のお力もあったのでしょう。

では、恵果阿闍梨を偲ぶ札所「青龍寺」へ参りましょう。

朝青龍がトレーニングしたという「青龍寺」の石段


ご詠歌

わずかなる 泉に住める 青龍は 仏法守護の ちかいとぞ聞く


お参りする前に知っておいた方が良い知識

歴史

  • 弘仁6年(815年)、この地を巡錫中の弘法大師は、唐で真言密教の修行中に霊地に向けて投げた独鈷杵とっこしょ(仏具のひとつ)がここにあると感得、嵯峨天皇に奏聞のうえ堂宇を建立して石像の不動明王像を彫り安置して開基、寺号を「青龍寺」として36番札所に定めた

  • 江戸時代初期(1603-1643年)、荒廃

  • 正保年間(1644-1648年)、土佐藩主の山内公によりに再興

  • 宝永4年(1707年)、地震と津波で大きな被害を受ける

  • 江戸時代末期(1708-1868年)、再建、明治時代まで土佐7大寺といわれるまでに栄える

独鈷杵とは角のような尖りのついた金剛杵(この写真は三鈷杵)


大師伝説

弘法大師は遣唐使として唐に行き、帰国時に海を渡る際に暴風雨に遭い命の危険を感じた。
その際、大師が一心不乱に祈念すると、持っていた不動明王が剣で波を切り大師をお助けになったという。

唐で修行中だった弘法大師は、密教の奥義を伝授された恩に報いるため日本にお寺を建立すべく仏具のひとつである3種の独鈷杵とっこしょを東の日本に向けて投げた。その一つがこの地の松の枝に引っ掛かっていたという。

因みに、あと二つ、三鈷杵と五鈷杵は高野山と足摺岬に落ちたという。


寺号について

  • 山号について
    ・・・発見した独鈷杵とっこしょに因んで「独鈷山」

  • 寺号について
    ・・・恵果阿闍梨を偲び、唐で真言密教の奥義を伝授されたお寺「青龍寺」と同じ寺号


ご利益

  • 御本尊の不動明王
    ・・・立身出世、悪霊退散、厄除けなどの|現世利益《げんせいりえき》の仏さま

  • 青龍寺の波切不動明王は、特に海上安全、海で働く人々の信仰を集めている


御本尊・ご真言

御本尊:波切不動明王
ご真言:のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん


見どころ

  • 山門(仁王門)から境内まで
    ・・・青龍寺は、上述の通り第68代横綱「朝青龍明徳あさしょうりゅうあきのり」の名前の由来となったお寺で、170段の石段で足腰を鍛えていたという

  • 本堂
    ・・・御本尊に波切不動明王を祀る 右脇陣に愛染明王像【重要文化財】を祀る(毎月旧暦28日に拝観可)

  • 恵果堂
    ・・・大師が師事をした真言密教第七祖の唐長安(中国西安市)青龍寺の名僧恵果和尚を祀る 


おまけ情報

  • 「青龍寺」は、唐(現中国西安市)の青龍寺に倣い、伽藍の配置も同様

  • 現在宇佐大橋が架かっている海は、昭和49年前までは渡し船で渡っていたという。この船のことを「竜の渡し」と呼び、青龍寺は「竜のお不動さん」とも呼ばれ親しまれてる

  • 駐車場から近くの黒い塀の鐘楼門をくぐりその先の仁王門をくぐってまっすぐ進むと本堂がある(私はしばらく本堂が何処か悩みました)


写真


次は、第37番札所岩本寺いわもとじへ参ります。

2022年4月15日投稿
2022年9月23日改訂

合掌

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