「車でお遍路」第62番札所 宝寿寺(歴史の深い札所)
こんにちは、旅いこかです。
四国八十八箇所巡礼、弘法大師との「同行二人」の旅、62番目のお寺は、
天養山 観音院 宝寿寺
61番札所の香園寺から約1.4㎞、車で約5分の場所、
宝寿寺への道は、至って簡単で香園寺から約700mほど進み国道11号線に入ると国道沿いから少し脇に入るだけ。標識を見落とさなければ直ぐに着く。
この宝寿寺、山門は無く、寺号標には一国一宮寶壽寺と記されている。
この地である瀬戸内海では、中世に軍事上・交易上大きな役割を果たす伊予の豪族越智氏と河野氏率いる三島水軍が、大山祇神社を守護神として崇拝、宝寿寺を菩提寺としていたのです。
一国一宮と記されているのは、伊予の宝寿寺が、記憶に新しい第55番札所南光坊と同じ神社の格式が最上位である日本総鎮守大山祇神社の別当寺となったことから。
そのため、三島水軍の菩提寺として栄えたお寺でもあります。
また、知る人ぞ知る話として、近年では、納経所(第62番札所に仮礼拝所設置)、納経時間、納経料などでお遍路を困らせた四国霊場会退会問題があった札所でもあるが、2019年12月に解決して正常化したとのこと(詳細は割愛します)。
時代の荒波に翻弄される歴史がありますが、宝寿寺の境内に入るとどこからともなく美しく涼しい風鈴の音色に心が癒されます。
では、大山祇神社の別当寺として栄えたという「宝寿寺」へ参りましょう。
ご詠歌
お参りする前に知っておいた方が良い知識
歴史
天平年間(729-749年)、聖武天皇の勅願により、道慈律師が伊予一国「一の宮」の御法楽所として創建
その際、聖武天皇は「金光明最勝王経」を奉納し、「金剛宝寺」と名付けて開基大同年間(806-810年)、巡錫でこの地を訪れた弘法大師は、聖武天皇のお妃、光明皇后のお姿を模した十一面観世音を彫って御本尊として安置、寺号を「宝寿寺」と改め霊場と定める
その後、幾度もの洪水で堂塔は被害に遭い荒廃
天養2年(1144年)、再建して山号を「天養山」と名付ける
天正13年(1585年)、天正の兵火で焼失、以降も荒廃
寛永13年(1636年)、伊予国東部の小松藩主一柳氏の帰依と宥伝上人により現在地付近に移して再興
明治時代初期には、神仏分離令により寺院は廃寺
明治10年(1877年)、大石龍遍上人により神社の隣に移して再興
大正10年(1921年)、現在地に移転
平成20年(2008年)、納経時間等運営要領を遵守できないとして四国八十八ヶ所霊場会退会申請
平成27年(2015年)、四国八十八ヶ所霊場会が運営要領遵守や未払いの会費支払い等で宝寿寺の住職を民事提訴
平成29年(2017年)、宝寿寺は裁判により退会が認められる
令和元年(2019年)12月、第86番札所志度寺が兼務にて宝寿寺の全ての運営を継承することで四国八十八ヶ所霊場会に再加入
(因みに、再加入までの間、納経については、四国八十八ヶ所霊場会会員の有無に係らず第62番札所としては存在するので、香園寺の仮設礼拝所等で対応していた)
大師伝説
寺号について
山号について
・・・天養2年(1144年)に再建した際に年号をとって「天養山」と名付けた院号について
・・・観音様を祀っていることから「観音院」寺号について
・・・歴史にある通り弘法大師が「金剛宝寺」から「宝寿寺」と改称
ご利益
御本尊の十一面観世音菩薩
・・・10種の現世利益(十種勝利)と4種の後世利益(四種果報)
(様々な災難、病気治癒、財福授与、勝利等の現世利益と延命、極楽浄土等への後世利益)宝寿寺の十一面観世音菩薩は、特に安産の観音様として信仰が厚い
御本尊・ご真言
見どころ
本堂
・・・御本尊に十一面観世音菩薩(秘仏)を祀る十一面観世音菩薩石像
・・・特に安産の観音さまとして信仰が厚く、優しく愛くるしい特徴的なお顔の菩薩。頭上の十一面にも注目香炉台
・・・境内中央には思い思いの願い事が書かれた風鈴が美しい音色を奏でている 自身の願いを込めた風鈴を奉納することも可
写真
次は、第63番札所吉祥寺へ参ります。
2022年7月8日投稿
2022年10月10日改訂
合掌
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