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ふとよぎる

自分がまさか「がん宣告」されるなんて。
たった1年前でも思ってないし、考えてもいなかった。

ふとよぎるのは、すでにこの世に居ない友達だ。
「お友達」って言っていいのかもわからないくらい、最期の方はあまり会っていなかった、Rさん。「わたし、ガンなんだよね」って言われて以降、会う回数は減った。意識して会わなかった訳ではないと自分では思う。でも、もしかしたら、Rさんはそうは感じてなかったのかもしれない。「会いたくないんだろうな」と思われてたかもしれない。そのくらい「ガンになる」という感覚を、あの頃の私は知らなかった。

アメリカで看護師をしているAちゃんが久しぶりに帰国した時、みんなで会ったことがあった。鹿児島の天文館の「喫茶マノン」でお茶をした。「この人はなんらかの病気なんだろう。おそらくだいぶ悪い状態であろう」ということが見た目で判別できる雰囲気で、Rさんは笑っていた。笑顔だけ見ると、元気そうな笑顔。でも抗がん剤治療の影響か、ただの色白とは違う色白さと、ニット帽。あの時の風景は記憶があるんだけれど、何を話したのか?さっぱりわからない。誰が一緒だったかさえも憶えていない。アメリカから一時帰国中のAちゃん以外。

知り合ったのは英会話教室。英会話教室に通ったことで、仕事や学校関係以外の人と出会う機会を得た私は、とにかく毎日のように通った。とても楽しかったから。そんな中で出会ったのがRさん。物言いも強めで、バリバリ仕事してる風な営業マンだった。はじめは正直「合わないなあ」と思った。けれどなぜか私が仲良くなる人と仲がいいのもRさんだった。たくさん会うきっかけとなったのは共通の友人(イギリス人)がフラメンコを始めたことだった。Rさんはその教室ではまあまあベテランのフラメンコダンサーでかなり雰囲気のあるダンスをした。観るのが面白くって「ステージ観に来て!」「パーティがあるよ」と誘われればフランメンコを観に(パーティに飲みに)行った。

結局、なにかしらの理由で、そのフラメンコ教室にRさん行かなくなって、フラメンコを見に行く機会が無くなった。と同時に、Rさんと会うのも減ったんだけれど、さらに減るタイミングとなったのが「がん宣告」となった。結果的に。

それ以来、久しぶりに会ったのが、喫茶マノンでのお茶会だった。今思えば、Rさんはなにも変わっていなかった。ガンの前も後も。自分と照らし合わせるとなおのこと、そう思う。なんにも変わらないものなのだ。変わっていくのは、増えていくガン細胞だけ。私のガンは切ってしまったので今のところ増えては行かない予定だが、あの時のRさんのガンは進行していった。

いまだに思うのは、Facebookでの毎日の投稿だ。「死ぬまでのカウントダウンをここに記していく」と本人は書いていた。「私は今、とてもワクワクしているの。だって今まで経験したことのない未来が待ってるんだもの」と。あの時の私にはソレはひとごとであった、そしてひとごとでもなかった。あの感覚は説明が難しいが、今でもその「モヤモヤ」はよくおぼえている。

わたし自身がガン宣告をされた時、あれがよぎった。ああ、私があの時感じた"モヤモヤしたうずくような痛み"は、これだったな。「自分だと思って想像する」という感覚を、私は間違えていなかったんだな、と。

私は2022年1月に、ステージゼロイチで全摘。そして、退院してもうすぐ4ヶ月が経とうとしている。今後5年間の生存率確率はすでに高い。
それでも、いっちばん最初に「悪性です」と言われた時のショックは計れないほどで。耳も遠くなったし、なんだかよくわからないような時空にそのまま吸い込まれていくような感覚。すぐ我にはかえったんだけれど、あの瞬間が一番具合が悪かった。あれは忘れない。

亡くなった、という知らせを受けた時。
「そっかあ。。。」となった。末期だったのは、あきらかだったし。そうなることもわかってはいたから。涙は出なかった。でもあらゆる想像力は働いた。お通夜には行かなかったが、お葬式には行った。とても小さな和室のような場所で、確か式も家族ではなく、その当時Rさんとお付き合いしていたボーイフレンドが仕切っていた。でも正直言うとあんまりおぼえていない。ふわふわしてたんだと思う。

Rさんは結婚して、離婚。子供は産んだけれど、産んですぐ引き離されたと、本人が話してくれたことがあった。会った事はない、と言ってた。私は子供を産んだ経験はないが、出産がどれだけ"大きな"事だったかということは想像できる。Rさんは、死をおもった時に、その、会ったこともない自らのお腹からこの世に誕生させた"生命体"を、思い出した事はあったんだろうか?

その子は、会ったこともない母親について何を知っているのだろうか?どんなふうに聞かされているんだろうか?自分を産んだ母親がこの世に居ないことを知ってるのだろうか?

なんて。私が私のアタマの中でよぎらせる必要は、まったくないんだけれども。




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