映画『タリナイ』―戦争の記憶とむきあう
アップリンク好き。
久しぶりに観にいったらちょっと
かんがえさせられたのでまとめ。
戦没した父の日記をたどる、『タリナイ』。
1945年4月、マーシャル諸島で餓死した日本兵が
亡くなる直前に戦友に託した日記をもとに、
その息子さんがお父さんの最後の地、マーシャルへ。
青くて豊かな海、木陰で
「コイシイワ、アナタハ」と、
ウクレレでうたう陽気なひとびと。
柔らかい時間の中で、太陽と暮らす。そんな感じ。
「良い日本人も、悪い日本人もいた。」
「この土地は、日本人が全部壊した」
ときおり、そっと吐き出される言葉に、
日常と非日常、過去と今、
登場人物と自分、マーシャルと日本を
いったりきたりするような
ゆすぶられるような感覚になる。
とてもなまなましくて、
その分あたたかくて、
ぬくもりがある誰かの記憶が
ふと、自分の中にすとんと落ちてくる。
居場所をあたえられた「記憶」たち
ちょうどこんな感覚を、サラエボでも感じた。
もはやなんの装飾もなくて、
「記憶」と「想い」がぽこっと、
ただ居場所をあたえられた、という印象。
とてもシンプルに、でもうんと丁寧に。
そこにはぬくもりがあって、誠実さがある。
誰かの主観ごしに見ていないから
自分と「誰か」との、直接的なやりとりになる。
あたかも、その人と対話しているみたいに。
誰かの記憶を自分にかさねる、その余白がある。
いまの時代の歴史継承のヒント
いろんな情報と、価値観がいりまじっている世界で、
いい、わるい、じゃなくって
いろんな視点があって当たり前、
じゃああなたはどうおもうの?が問われる時代。
戦争がおわって73年、
どんどん変わりゆく世界の中で、
歴史と記憶の伝え方も、
一義的なものじゃなく、
変わっていかなくちゃいけないはず。
サラエボの博物館も、映画『タリナイ』も
そのヒントをくれるような気がする。
記憶の持ち主と、受け取り手が
誰かの主観をできるだけはさまずに、
直接つながる余白、空間をつくること。
でもそれは何も手入れをしないという意味じゃなくて
とことん丁寧に、その持ち主の想いに寄り添って
受け取り手のこころをゆさぶるしかけをつくる
媒介者が必要であること。
でもその人は、隠されていなくちゃいけないこと。
「過ちは二度と繰り返しませぬから」
時代はかわってゆく。
考え方も暮らし方もかわってゆく。
その中で、どうやってわたしたちは
記憶を受け継いでいくんだろう。
広島平和公園慰霊碑にきざんである言葉のように、
あんな悲しみを、くりかえしたくないから
わたしたちは結構本気で、考えなくちゃいけないとおもうの。
また戦争が起こってしまいそうで、とてもこわい。
映画『タリナイ』
https://twitter.com/tarinae_film