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フィンランド湾に浮かぶ岩島で、少女とお婆ちゃんがひと夏を過ごす物語

心を惹かれてやまない風景というものがある。
私(Satoru)にとって、それは多島海域である。

たとえば、瀬戸内海。小さな島々が、穏やかな海に群れをなして、こちらの気配をじっと窺っている。日本の島の百科事典「シマダス」をひもとけば、それぞれの島の来し方を知ることができる。私は瞑目して満足にひたる。

フィンランド湾にも多島海域がある。その数は3万とも言われている。

フィンランド版の「シマダス」があるのかどうか、寡聞にして知らないが、もし存在するならぜひとも手に取ってみたいが、ともあれ、そこには個人が所有する島も少なくないらしい。

北限の国においては、太陽の光でさえ、夏にしか十分に享受できない。その限られた恵みを全身で味わうために、「夏の家」と呼ばれる別荘を、島内に建てつけ、そこで静かな余暇を過ごす。フィンランドにはそんな慣習があるという。なんとも粋な慣習である。

ヘルシンキに生まれた作家のトーベ・ヤンソンも、夏になると小さな岩島で過ごし、そこにある小屋でムーミンの話を執筆していた。

そう聞くとロマンチックな響きがある。でも島の写真を見ると(「少女ソフィアの夏」という本の巻末に載っている)、幻想がとける。

海面のぎりぎりに岩肌を覗かせるばかりで、大波が来たらたちまち海中に没しそうなのだ。足腰と精神を鍛え直さなければ、私など3日も耐えられるかどうか。


「少女ソフィアの夏」の主人公は、題名のとおり、ソフィアという名の少女である。作中で明言されていないが、年頃は6歳くらいか。彼女の母親は、何らかの理由で、すでに不帰の人である。そして、おそらくはそれゆえに、フィンランド湾に浮かぶ岩島で、お婆ちゃんとひと夏を過ごすことになる。

作者自身の母と娘への観察から命を吹き込まれたとされるこの本について、ヤンソンさんは「わたしの書いたものの中で、もっとも美しい作品」と述べている。


この本は、平均して10ページほどの、いわゆる掌編の連なりで出来ている。それぞれの逸話は、ちょうど多島海域に浮かぶ島々のように、水面の下では繋がりつつも、互いに独立した関係にある。どの順で読んでも支障はない。

読書とは、人間に許された一掴みの自由である。寝る前のひとときなどに、林檎を齧るようにして、少しずつ読み継いでゆく愉しみ。それを知っているあなたにとって、たぶんこの本は最良のひとつになるだろう。

少女が主人公ということで、これを児童文学にカテゴライズする向きがあるかもしれない。でも私にはそうは思えない。いや、もちろん、世界中の若い読者を獲得して、長らく愛されてきた作品であることは私にもわかる。

しかし、それはそれとしても、この本には、シンプルな道理や建前では割り切れない、いわば人生の夕暮れへと向かっていく者だけが知れる味わいが、さっぱりとした文章の内にも、白い海霧のように立ち込めていて、私には、それこそが魅力であり、(児童文学の枠を超えた)美しさだと思えるのだ。

©Tove Jansson "Sommarboken" (1972), Photo: Yle/Ida Fellman


「テント」
という掌編は、こんなふうにしてはじまる。

ソフィアのおばあさんは、昔、ガールスカウトのリーダーだった。あの時代に幼い女の子たちがスカウト活動に参加できるようになったのは、ソフィアのおばあさんのおかげだった。

おばあさんは、かつてガールスカウトの黎明期を生きた若者だった。

けれども、その良き伝統は、子どもたちには受け継がれず、いつしか縁遠いものとなってしまう。

そんなとき、趣味人たるソフィアのお父さんが、島の岩場にテントを張る。ソフィアはそれに興味を抱く。

「あれってガールスカウトのテントなの?」
と、ソフィアがきいた。

するとおばあさんが、フンと鼻を鳴らし、こう言った。
「わたしたち、自分たちのテントは、自分たちで縫ったんだよ」

おばあさんには少しく偏屈なところがある。いくぶん似た性質を受け継いでいるソフィアとは、だからしばしば喧嘩になる。

でも、ここでのソフィアは、素直に好奇心をひらいて、おばあさんに質問を投げかける。

「眠っちゃだめよ」ソフィアが言った。「ガールスカウトってどんなのか、おばあちゃんたちがどんなことをしたのか、話してちょうだい」

ずいぶん昔のことになるが、おばあさんだって話して聞かせたかったころもあった。でもそのころは、だれも耳をかたむけてはくれなかった。いまガールスカウトのことなんて、ぜんぜん話す気になれない。

そういうことって確かにあるな、と私は思う。

胸を焦がし、誰よりも情熱を注いでいたはずの物事が、毎日を忙しく過ごすうちに、いつのまにか擦り切れて、見えなくなってしまう。

気づいたときには、記憶の引き出しも、もはや滑らかには動かない。

ものすごく残酷で、ものすごく現実にあることだ。

(なんだかおかしい……)
と、おばあさんは思った。

(これ以上、話して聞かせられない。……言葉が見つからないんだ。というより、わたしが、本気で話そうとしていないんだ。あれからもう、ずいぶんたった。ガールスカウトなんて、だれにも、たいしてかかわりのないことになってしまった。これでは、わたしが心から望んで話さなければ、まるで、あんなこと、起こりもしなかったことのようになってしまう。色あせて、やがて消えてしまう)

小さなソフィアには、当然ながら、そうした心の機微まではくみ取れない。

おばあさんとソフィアは、70歳も離れているから、ときに会話がかみ合わない。けれどもふたりは同じ島の世界を生きていて、それがいちばんの共通点になっている。だから、安易には分かり合えずとも、ソフィアにはソフィアなりの、おばあさんにはおばあさんなりの、得心が訪れるときがある。

この短い掌編も——未読者に対する礼儀として、話の筋を割るのはここまでにしたいが——、そのような読み味を残して終わるのだ。

長い歳月が流れて、もうずっとソフィアがおばあさんの不在に慣れたころ、あの遠い岩島で過ごした思い出は、薄れつつも、彼女のどこかには消えずに残って、ささやかな生きるよすがとなってくれたにちがいない。

それが私なりの得心であった。フィクションと現実の壁をこえて、ここまで接到した光でもあった。


(この記事を書くきっかけを与えてくれた後藤グミさんに感謝します)


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