【鉄道開業150周年】鉄道唱歌の旅(東海道編)1日目:新橋~横浜
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2022年2月15日(火) 1日目 第1番~第5番
前哨戦
まずは現在の東海道本線の起点・東京駅に向かいます。
旅の始まりは東京駅から。壮麗な駅舎はいつ見ても旅情を掻き立てます。
現在の東京駅が開業したのは1914年。鉄道唱歌が制作された1900年より14年も後のことです。歌詞に登場しないとは言え、現在の東海道本線の起点である東京駅には鉄道に関する歴史的な見どころが多数あります。今回はその一部を訪れました。
丸の内駅北口側にある、日本の鉄道の父・井上勝の銅像です。明治の鉄道開業に大きく貢献し、初代鉄道頭や鉄道庁長官などを歴任しました。いわゆる「長州ファイブ」の一人であり、また小岩井農場の「井」の人です。
銅像は現在の東京駅を望むように建っています。開業から150年、日本の鉄道の発展を井上勝はどのように見守ってきたのでしょうか。
そろそろ駅舎に入りましょう。丸の内南口は、誰もが日本史で勉強するあの歴史的な事件の現場です。
1921年11月4日午後7時20分、京都に向かうため東京駅を訪れた当時の原敬首相がこの地で暗殺されました。現場には説明版と印が設置されています。
東京駅では他にも似たような事件が起きています。
1930年11月14日午前8時58分、神戸行き特急「燕」に乗車するため東京駅を訪れた当時の濱口雄幸首相がホーム上で銃撃されました。濱口首相は一命をとりとめたものの、翌年亡くなりました。東京駅そして鉄道は、数々の歴史的事件を目撃してきたのです。
少し暗い話題が続いたところで、ホームに上がってみましょう。
写真中央に写っているのは「0kmポスト」と呼ばれる、各路線の起点を示す標識です。鉄道唱歌発表当時の東海道線の起点は新橋駅でしたが、現在は東京駅となっています。東京駅にはこのほか中央線や新幹線など、様々なデザインの0kmポストが各所に設置されています。
東海道線の列車がやってきました。神戸まで15日間の鉄道唱歌の旅、スタートです!
第1番『汽笛一聲新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として』
解説
鉄道唱歌発表当時、東海道線の始発駅は新橋駅でした。
東京都港区にある愛宕山は、江戸時代にも名所として知られていました。自然地形としては23区内で最高標高を誇り、頂上付近には愛宕神社やNHK放送博物館があります。
月はラストの第66番にも出てきます。
訪問
東京駅から東海道線で一駅、新橋に到着です。
新橋駅は鉄道が開業してからしばらく、東海道線の起点として活況を呈しました。現在でも駅構内・駅周辺に鉄道を象徴するデザインが見られます。
駅前には有名な「鉄道唱歌の碑」があります。第一番「汽笛一声新橋を…」のくだりは誰しも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
さらに有名なのがこちら。鉄道開業100周年を記念して1972年に駅前に設置されたSLです。首都圏以外の方でも、テレビの街頭インタビューなどで目にしたことがあるかと思います。
ここから「ある場所」に向かうため、少し歩きます。
途中で旧東海道に近い国道15号線と交差しました。鉄道唱歌の旅では、この後も何度も旧東海道に遭遇します。
駅から歩くこと数分。高層ビルに囲まれた一角に、随分とレトロ調な建物が現れました。
ここは「旧新橋停車場」。現在の新橋駅は1909年に烏森駅として開業したもので、鉄道唱歌発表当時の新橋駅(当時の名称は汐留駅)はここにありました。普段新橋駅を利用する人なら、「烏森」「汐留」に聞き覚えがあるのではないでしょうか。現在も駅出入口の名前に残っていますね。
旧新橋停車場では、復元された建物の内部を無料で見学できるようになっています。残念ながら原則撮影禁止ですが、この場所のこの角度のみ撮影がOKとなっていました。もしかしたら見覚えのある方がいらっしゃるのではないでしょうか。そう、この部屋は実はブラタモリ鉄道スペシャル(2022年4月23日放送)でロケが行われた場所です!運が良ければタモリさんとニアミスしていたのかな…
記念スタンプを押しました。
建物前には駅舎玄関の遺構が保存されています。
裏手にはホームと0kmポストの復元が。こちらもブラタモリで紹介されていましたね。階段がついていますが、通常時はホームに上がることはできないようです。
それでは次の訪問先へ。少し歩きます。
15分ほど歩いて愛宕神社に到着。自然地形としては東京23区内最高標高の愛宕山にある神社です。
愛宕神社は信仰や景観の良さなどから、江戸時代から多くの人が訪れる名所として有名でした。鉄道唱歌にもしっかりと歌われています。
お参りを済ませ、神社脇の茶店で昼食。撤饌うどんと名物志ら玉をいただきました。お客さんも少なく、ゆったりと味を楽しめました。
では次の目的地、泉岳寺へ向かいます。
第2番『右は高輪泉岳寺四十七士の墓どころ 雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも』
解説
東海道線沿い、高輪ゲートウェイ駅の近くには赤穂浪士ゆかりの泉岳寺があり、敷地内には四十七士の墓があります。
討ち入りの際は前日までの積雪が残っていたと言われていますが、雪はすぐに融けて消えてしまうものです。対して赤穂浪士の名は現在に至るまで広く知られ、小説や舞台、時代劇など様々な形で残っています。
訪問
新橋から山手線に乗車し、話題の「高輪ゲートウェイ駅」へ。開放的な素晴らしい駅舎ですが、乗客の姿はまばらです。
駅前では工事が続いています。開業当初には用地の関係で、現在の田町~品川付近の東海道線の線路は海上に通されました。最近工事現場で発見され話題となった高輪築堤はこの際に造られたものです。
駅から数分歩くと泉岳寺駅があり、そこから程なく泉岳寺に到着です。
敷地内には赤穂四十七士の墓があります。忠臣蔵の話は現在でも様々な形で語り継がれています。訪問の数日前に東京では雪が降りましたが、ちょうどこの日は雪が融けきっていました。「雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも」、何とも素敵な表現ではないでしょうか。
第3番『窓より近く品川の 臺場も見えて波白く 海のあなたにうすがすむ 山は上總か房州か』
解説
開業当初の品川駅は、目の前がすぐ東京湾でした。
訪問
高輪ゲートウェイ駅から京浜東北線で一駅、品川駅に到着です。
改札階に上がると0kmポストがお出迎え。1872年、東海道線が仮開業を始めた際はここ品川が始発駅でした。
駅前には品川駅創業記念碑が建っています。訪問後に再開発工事のため数十メートルほど移転されたようで、現在は裏側が見られない状態となっています。
駅の反対側、東口にやってきました。駅自体が移転しているためやや不正確な表現になりますが、かつてこの辺りは全て海でした。品川は海沿いで房総半島やお台場が見渡せる開放的な駅だったのでしょう。現在はビルが立ち並んでおり、都会の一大ターミナル駅として活躍しています。
鉄道唱歌の旅とは関係ありませんが、2022年3月のダイヤ改正で消滅する日中の常磐線特別快速を観察しました。
発車メロディ「鉄道唱歌」に耳を傾けつつ、京浜東北線に乗車します。
第4番『梅に名をえし大森を すぐれば早も川崎の 大師河原は程ちかし 急げや電氣の道すぐに』
解説
大森には、かつて梅の名所としても知られた遊園地「八景園」がありました。
1899年1月、六郷橋~大師間で「大師電気鉄道」が開業しました。これは現在の京急大師線の前身であると同時に、京急電鉄発祥の路線でもあります。開業により川崎大師(平間寺)への参詣の利便性が向上しました。
訪問
大森は鉄道が開業してからわずか4年後の1876年に東海道線の停車駅として開業した、非常に歴史のある駅です。当初は線路の保守点検を行う作業員の詰所が転用された駅で、利用客はほとんどいなかったようです。
大森にあまり馴染みのない方でも、「大森貝塚」は聞いたことがあるのではないでしょうか。エドワード・モースが1877年に東海道線の車窓から発見した縄文時代の貝塚遺跡で、その出土品は重要文化財に指定されています。残念ながら鉄道唱歌では歌われていませんが、ホーム上には縄文土器を模した日本考古学発祥の地碑が置かれています。
代わりに歌詞にあるのが、「梅に名をえし」というフレーズです。1884年、大森駅のすぐ近くに梅の名所としても人気になった遊園地「八景園」が開業しました。現在は消滅した遊園地の痕跡を探しに、駅西口から歩いてみましょう。
……駅から彷徨うこと約10分、どうやらこの住宅街のあたりがかつての八景園跡のようです。何かしら痕跡はあるだろうと思っていましたが、予想以上に跡形もなく変貌してしまっているようです。八景園は関東大震災前後に住宅地に分譲されてから実に約100年が経っており、さすがに厳しいか…、と思った矢先、わずかな痕跡をいくつか見つけました。
まずは建物名。「大森山王の館 八景園」というマンションがあるようです。
次は分かりづらいですが、八景園記念碑(皇后陛下行啓記念碑)です。1902年に皇后陛下が行啓された際に建てられた記念碑のようですが、現地に説明版などはありませんでした。
最後は闇坂(くらやみざか)。八景園の樹木が繁り日中でも暗かったためにこの名がついたそうです。
一通り八景園の痕跡を確認したところで駅に戻ります。
一駅だけ進み、蒲田で下車。鉄道唱歌とは関係ありませんが…
当時開催されていた「懐かしの駅スタンプラリー」のスタンプ10駅分をコンプリートしたので景品を貰いに行きます。
大時刻表ノートをゲット。今でも家で大切に保管しています。
気を取り直して鉄道唱歌の旅に戻りましょう。再び京浜東北線に一駅乗車し、川崎駅に到着です。
駅から歩くこと10分、旧東海道沿いに来ました。
旧東海道付近のこの辺りには、初代六郷橋駅(当時の名称は「川崎駅」)がありました。川崎大師(平間寺)へのアクセスのため、鉄道唱歌発表前年の1899年に開業した大師電気鉄道の始発駅です。
六郷橋駅跡と言うとこちらのホーム跡が有名ですが、こちらは2代目です。初代は先ほどの位置にあったようです。
このまま川崎大師まで徒歩で向かっても良かったのですが、せっかくなので「大師電気鉄道」に乗ってみることにします。え?そんな鉄道聞いたことないって?大丈夫です。今でも路線名が変わっただけで走っています。それがこちら。
港町駅から京急大師線に乗車し、川崎大師駅に到着です。
大師電気鉄道は、現在の京急大師線、もっと言えば現在の京急電鉄の前身です。現在では京浜間輸送や空港アクセス、三浦半島方面への行楽需要などのイメージが強い京急電鉄ですが、その原点は川崎大師への参拝路線だったのです。川崎大師駅前には京急発祥の地碑が設置されています。
駅前には立派な厄除門が。川崎大師にお参りに行きます。
平日夕方ということもあって人はまばらでした。
大山門をくぐり参拝。現在の本堂は戦後に再建されたものだそうで、鉄道唱歌当時は更に立派だったのかなあ、と想像を巡らせていました。
帰り際に山門横の住吉で江戸時代からの川崎大師名物・久寿餅をいただきました。
すっかり日も暮れてきました。思ったより色々歩いて疲れたので、帰りも「大師電気鉄道」で東海道線に戻ります。
東門前から乗車。
川崎に戻ってきました。
第5番『鶴見神奈川あとにして ゆけば横濱ステーシヨン 湊を見れば百舟の 煙は空をこがすまで』
解説
当時の神奈川駅は現在のホテルメッツ横浜付近にありました。京急神奈川駅とは無関係です。
当時の横浜駅は現在の桜木町駅に当たります。横浜周辺はスイッチバックの解消などのために何度か駅の新設・廃止があり、やや複雑になっています。
横浜は当時から重要な港でした。
訪問
川崎から再び京浜東北線に一駅乗車します。
2022年2月末で消滅予定の鶴見線乗り換え改札を見に来ました。同業者らしき人もちらほらいました。
鶴見、神奈川を後にします。目指すは「横浜駅」です。
初代横浜駅、現在の桜木町駅に到着です。当時の東海道線の横浜駅はここ桜木町にあり、スイッチバックを行って新橋方面と神戸方面を行き来していました。
桜木町駅を少し散策してみましょう。鉄道が最初に通った駅であり、鉄道の歴史にまつわる様々な展示があります。
桜木町駅の発車メロディは「線路は続くよどこまでも」。横浜市の主要駅の座は現在の横浜駅に譲ったものの、かつての終端駅としての貫禄を今でも感じられました。
そろそろ駅の外に出てみましょう。散策します。
夜遅かったので中の見学はできませんでしたが、日本丸の外観を見ました。横浜は港町として栄え、まさに当時から「湊を見れば百舟の~」だったのでしょう。
横浜臨港線跡を歩きます。人によっては「汽車道」と呼んだ方が馴染みがあるかもしれません。開業は1900年以降なので、鉄道唱歌当時はありませんでした。美しい夜景を楽しみながら歩きます。
そろそろ桜木町駅に戻りましょう。もう1つの見どころに行きます。
旧横濱鉄道歴史展示(旧横ギャラリー)です。鉄道開業当時に実際に走行していた110形蒸気機関車が展示されています。
桜木町駅と似たような鉄道関連の展示もあります。内容は駅にあったものとは異なり、また楽しめました。
鉄道開業当時の様子が分かるジオラマもありました。常時無料で見学できるのは素晴らしいですね。
地下鉄で宿へ向かいます。
本日から2泊お世話になる「ホテルマイステイズ横浜」。楽天スーパーDEALとクーポン・コロナ相場が重なり、なんと2泊合わせて実質4471円でした。
夕食は崎陽軒のシウマイ弁当。よく歩いた1日でした。
参考文献
原口隆行(2002)『鉄道唱歌の旅東海道線今昔 愛唱歌でたどる東海道本線各駅停車』JTBキャンブックス.
品川区立品川歴史館「大森貝塚」 2022年7月26日閲覧.
大田区「八景園跡」 2022年7月26日閲覧.
東洋経済オンライン「初詣でにぎわう「京急大師線」、波瀾万丈の歴史」 2022年7月26日閲覧.
本文中の歌詞の表記はWikisource「鉄道唱歌/東海道編」に倣いました。
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