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At Sweet Home_4

 ご縁というものは侮れない。子供の頃は犬猿の仲だったクラスメイトが、社会人になってから偶然再会、そのまま恋人同士になりやがて結婚するということもある話だ。その場合その二人は披露宴で、元クラスメイトにいかに仲が悪かったか、どんな喧嘩をしていたかを暴露される運命にあるが、それは幸せなご縁である。

 一方タチの悪いご縁も存在する。例えば、女性と上手く関係を築けないフラストレーションを爆発させ性犯罪を犯してしまった男が、刑務所でヤクザと出会い、出所後もっと凶悪な犯罪に手を染めるということもある。まさしく悪縁。一歩踏み外したために転がり落ちるように闇の世界の住人になる人間は、大体こういった悪縁に絡み取られて身動きが取れなくなっている。

 今回の女子高生強姦未遂事件の犯人のことである。

 冬紀たちの地獄のような張り込みの甲斐あって、事件発生から二週間という、こういう事件にしては短い期間で犯人確保に至った。男がターゲットを決め、女子高生の後ろをピッタリと歩いているところを押さえた。第二の被害者を出すことなく事件を解決できて、冬紀たちも心から安堵したが、男の口から祥極会の来栖元樹の名が出たことで四課が激震している。最近、事件の大小に関わらずこの名前が出てくる。四課の課長によると、勢力図が変わり始めているらしい。こういう時期は治安が悪くなりやすい。事件はひと段落したが、冬紀たちは改めて気を引き締めなければならなかった。


 そうは言っても、やはり事件を解決してつく家路は気分が良いものだ。冬紀は揚々とコンビニでビールとツマミを買って帰った。そして、玄関に一歩足を踏み入れたところで、思い出した。

 部屋に、春彦がいることを。

 春彦を連れて帰ったあの日以来、結局一度も帰るタイミングなく十日ほど経っている。その間、署に置いている予備のカッターシャツやスーツで凌いだが、基本的にはボロボロの状態だ。こんな状態で帰ってきて、春彦は何と思うだろうか。そもそも公務員としか伝えていない。十日も家に帰らない公務員。何と思われているか知れない。怪しまれていることは恐らく間違いないだろう。

 そもそもあの日、かなり強引に連れて帰った。そしてこの部屋に留まるようにしたのはほとんど強制だった。怪我人、しかも事件の被害者が帰る場所を持っていないという状況に、張り込みによる疲労困憊に加え心配だのなんだのがキャパシティを超えてしまった結果だった。冬紀の思いはさておき、春彦はそれを迷惑がっている可能性もある。

 事件を追いかけて忘れていたあれこれを思い出し、冬紀は玄関で立ち尽くしていた。すると、キッチンから何やら話し声が聞こえてくる。

 「ほら、味見してみろよ。さっきのよりはマシになってんだろ?」

 「……ほんとだ。すごいです結城さん!」

 「相沢はビビって調味料が足りてないんだよ。薄味も大事だが、味付けはちゃんとしねぇと……あ」

 一人は春彦の声であることはわかっていたが、いつもとずいぶん雰囲気が違うと思い、恐る恐るキッチンを覗くと、おそらく新しく就いたのであろう家政婦に春彦が料理を教えているようだった。春彦がそんな雑な口調で喋っているところを初めて見たので、冬紀は驚いた。

 春彦の表情を見て、相沢、と呼ばれている女の子がこちらに振り向いた。

 「あ!お帰りなさい!吉野さま、初めましてですよね。私、新人家政婦の相沢です!今!夕飯が出来まして、今日のメニューはーーー」

 「相沢、先に荷物をお預かりする。夕飯の話はテーブルに並べてセッティングしてから」

 「あ!そうでした!すみません、気づかなくって」

 相沢はコロコロと表情の変わる、まさに若い女の子といった感じだった。冬紀に駆け寄ると、紙袋に適当に詰めて持って帰ったスーツを丁寧に受け取り、中身が洗い物とわかると洗濯機のある洗面所に向かった。

 春彦は、まだ右足が痛むのか、ゆっくり歩いて近づいて来て、冬紀の手から買ってきたビールをそっと取りながら、

 「お帰りなさい。すぐにお夕飯の支度をしますので、着替えて来てください」

と言ってにっこりと笑った。完全に仕切り直された感じだが、久しぶりに春彦から「おかえり」と言われて、冬紀はやっと家に帰ってきた実感が湧いた。

 寝室で適当な部屋着に着替えリビングに向かうと、相沢がテーブルに二人分の食事を並べているところだった。

 「春彦は……」

 冬紀が思わず春彦を探して呟くと、相沢が弾かれたように答えた。

 「今、私が洗濯機に入れたものを確認して下さってます。ちゃんと仕分けられてるか不安って言われちゃって……」

 その答えに、冬紀はそうかとだけ応じ、テーブルに並ぶ今日の夕飯を見た。鶏肉とゴボウの煮物、菜の花の和物、小さめの焼き魚に味噌汁、ご飯。どれもまさに今、冬紀が食べたかったいわゆる家庭料理である。

 「今日のメニュー、お魚は小さめですが、煮物は沢山作っていますのでモリモリ食べて下さいね!吉野さまがいつ帰ってこられても良いように、煮物は多めに作っておりましたので」

 「あぁ、連絡も無く、なかなか帰って来なくて、すまなかったな」

 「とんでもございません!お客様の生活サイクルに合わせるのも、私たち家政婦の仕事です」

 丸いメガネ越しに、キラキラとした大きな目で真剣にそう言われ、冬紀は居心地が悪いような、照れ臭いような心持ちだった。またそうかとだけ応じ、テーブルにつく。

 するとリビングの入り口に突っ立っている春彦と目が合った。いつものにこやかな様子と違い、何となく不機嫌な顔に見えたが、すぐに目を逸らされた。やはり、強制的にこの部屋に留まらせたのはまずかったのだろうか。よく考えればこれは軟禁というやつになるのではないか。冬紀は俄かに不安になり、頭から血の気が引くのがわかった。

 「相沢、ちゃんと仕分けできてた。今日はもう上がって良いぞ」

 そう言われて、相沢は嬉しそうに荷物をまとめ、ぺこりと冬紀に頭を下げて帰って行った。見送りの玄関先で、報告書はちゃんと今日中に書いて出しておけよ、と春彦が念を押している。

 その間ずっと「軟禁」という言葉が頭の中をぐるぐると駆け回っていた冬紀は、春彦が戻ってきてテーブルにつく頃にはすっかり顔色が悪くなっていた。

 「冬紀さん、具体悪いですか?顔色が…」

  気遣わしげに春彦に言われ、はっと我に帰る。

 「あ、いや、別に、疲れてはいるが、体調は悪くない」

 心配そうにこちらを見る春彦は、いつも通りに見える。顔の腫れはすっかり引いて、もういつもの爽やかな好青年の顔に戻っている。そうなると、ますますただのお節介になってしまったのではと不安が募った。

 その時。ぼーっと考え事をしていた冬紀の額に、ひんやりとした春彦の手が伸びてきた。あまりにも無邪気に顔を触る春彦に、冬紀は固まる。ついでに、自身が夜中に、無意識に春彦に手を伸ばしたあの奇行を思い出して、今度は顔が熱くなった。

 「熱は無いようですね。でもやっぱり顔色がよくないので、今日は早めに寝てください」

 そう言って春彦は冬紀の向かいに座った。

 2人分の食事を囲んで、テーブルについている。これは初めてのことだった。

 「では、いただきましょうか」

 「あぁ…」

 しばらく呆けていた冬紀だが、春彦につられて手を合わせ、食べ始めた。

 鶏の出汁とごぼうの香りが香ばしく、たっぷりと煮汁の染み込んだ野菜たっぷりの煮物。

 絶妙な塩加減で味付けされた焼き魚。

 どちらもご飯が進む絶品だった。こうして家で家庭料理を食べるようになって、冬紀は甘いコーヒーを飲むことが無くなったことに気づいた。家に帰って、美味しいご飯を食べる。それだけで仕事の疲れが吹き飛ぶのを感じる。まさに、冬紀が欲していたもの。それを与えてくれたのは、紛れもなく目の前にいる家政夫であることに思い至った。

 そして春彦が事件に巻き込まれて怪我をしたと聞いた時、一体何に焦っていたのかがわかった。冬紀は、春彦を失うことを恐れていたのだ。春彦が居なくなること、それはあの淋しく無機質で彩りのない生活に戻るということだ。ある意味、家族を失うような感覚に近かった。

 ふと、目の前に座って魚を食べている春彦を見る。二人で食卓を囲んでいることが強く意識された。春彦の綺麗な箸使いをじっと見る。育ちの良さが感じられる。春彦の家族は、どんな人達なのだろうかと思った。

 「お口に合いませんでしたか?」

 冬紀の箸が完全に止まっていることに気づき、春彦が聞いてきた。慌てて否定するが、まさか春彦に見惚れていたとは言えず、曖昧にモゴモゴと反応するだけになってしまった。

 そう言えばこういう時、何を喋れば良いのかわからない。冬紀は自分の口下手が憎らしかった。

 「冬紀さんのおかげで、怪我の回復が早い気がします」

 春彦が切り出してきた。不安に思っていたことの核心に迫る内容で、冬紀は何と言うべきか迷った。

 「久しぶりに、ゆっくり寛ぐことができました」

 そう続いた言葉に、期待してしまう。己のやったことが、春彦にとっても良いことだったのではないかと。ありがとうございました、と頭を下げる春彦。しかしまだ、冬紀は何と答えるか考えがまとまらなかった。すると。

 「大変恐縮なのですが、明日の朝まで居させていただいてもよろしいでしょうか。明日には通常通りに暮らしていただけるようにしますので」

 そう言われて、半ば反射的に冬紀は答えた。

 「部屋が見つかるまで、ここに居て良いぞ」

 言ってしまってから、また後悔した。まるで春彦が部屋を借りることが前提のように言ってしまったが、そもそも彼は部屋探しをしていたわけではない。春彦の生き方に、ここまで干渉する権利は冬紀には無いのだ。

 案の定、春彦は困惑した顔をしている。彼に必要以上に干渉してはいけないと思いつつ、しかし感情の部分でどうしても春彦を引き留めたくて言葉を探している自分にも気づいた。冬紀は頭の中がごちゃごちゃになっていることがわかっていた。普段の冬紀なら、そんな時には口を噤むのが常なのに、今は違った。

 「友人の家を転々とするなんて生活、良くないに決まってるだろ。これを機に部屋を探して、きちんと自分の生活を立てるべきだ。それまで、取り敢えずここで暮らしゃ良い」

 これが自分の価値観を押し付けていることに他ならないことは分かっていた。しかし、止まらなかった。もう警察官として、一人の大人として、目の前の若者のためを思って発しているのか、単に春彦を引き留めたいだけなのか分からなくなっていた。

 春彦の顔色を伺う。明らかに困惑した顔だ。冬紀自身も自分の気持ちに戸惑っているのに、それをぶつけられた春彦も、困るに決まっている。しばらく沈黙が続いた。二人とも箸も止まっていたため、その沈黙は全くの無音だった。見つめ合っているような、目を逸らし合っているような、不思議な空白。冬紀は漠然と、春彦が出ていく言い訳を探しているのだと思った。

 「……お恥ずかしながら……」

 耳鳴りがしてきそうだと思った時、おずおずと春彦がその沈黙を破る。

 「生活を立て直すための資金が、私にはありません。貯金とか、そういうことはしてこなかったので。だから……」

 冬紀は口を挟みたいのをグッと堪えた。まずは春彦の言い分を聞くべきだ。

 「長くなっちゃうかも知れませんが、良いですか?」

 にわかに、春彦の頬が恥ずかしそうに赤くなっていることに気付く。それは貯金がないことの恥ずかしさなのか、もっと別の感情からなのか判断に困った。とにかく春彦が出ていかないということに、胸がじんと温かくなる感覚があった。止まっていた血が巡り出したような心地だ。

 「かまわねぇよ」

 冬紀はそれだけ絞り出すと、食事を再開した。焦りや不安が無くなって食べる食事は格別に美味しい。安心というスパイスが効いている。一拍遅れて、春彦も食事を再開した。かちゃかちゃと鳴る二人の箸の音さえ心地良かった。

 その後はたわいない話をした。冬紀がいない間、どんな風に過ごしていたかとか、新人家政婦の相沢のことなど、春彦が喋って、冬紀が聞く。春彦が饒舌になることはこれまで無かったが、まるでずっと前からそうだったように自然に、二人の会話のリズムができた。春彦は案外お喋りなやつだと冬紀は思った。自分のことをあまり語らないのは冬紀も同じだが、何でもない話さえ自分からはしない冬紀と違い、春彦は楽しそうに話す。監禁とか無理やり閉じ込めたとか不安になっていたさっきまでの自分が馬鹿らしくなるほど、冬紀がいない間の研修は順調だったらしい。冬紀は自分の行いが悪いことではなかったことがわかり、安堵した。


 さほど広くもない1DKで、男の二人暮らし。

 字面は窮屈だが、実際はそうでもない。ベッドは寝室いっぱいのクイーンサイズ、リビングと兼用にできるほどの広さはあるダイニングはもともと物が少ない。春彦が冬紀の部屋に居候するようになって三週間ほど、なんの問題もなく暮らせた。家事代行の日以外はしなくて良いと冬紀は言ったが、春彦は細々と日々の家事をこなしてくれたので、ますます具合が良い。みるみる健康的に生き生きとし出した冬紀の変化は、遂に一課の他の面々にも気づかれることとなり、「吉野に新しい女ができた」と署内で実しやかに噂されるようになった。交通課の女性警官や、事務方の女子職員の一部はハンカチを噛んで悔しがったが、それは冬紀本人の知るところではない。

 そんな「吉野の新しい女」に対する嫉妬とは別の意味で憤慨している冬紀の同期、早乙女舞子が、恨みがましいジト目でやって来た。

 「まんまと幸せになっているそうね」

 「何だまんまとって」

 何が不満なのか、舞子はフンと鼻を鳴らし冬紀の隣のデスクに腰掛けた。

 「おい、机に座んな」

 「ちょっと、今晩ツラ貸しなさいよ」

 「あぁ?俺ぁヤキでも入れられんのか」

 「いつもの店ね。新しいかわい子ちゃんに誤解でもされないよう、話通しときなさいよ」

 舞子はそれだけ言ってサッサと自分の仕事に戻ってしまった。全く会話にならなかったが、まぁそんなのは今に始まったことでもないかと冬紀も仕事に意識を戻しかけた。そしてハタと 「新しいかわい子ちゃんって誰のことだ?」と疑問が浮かんだが、舞子が不機嫌になる理由がわからないのも今に始まったことではないので気にしないことにした。

 

 舞子が指定した「いつもの」店は、家事代行サービスのチラシをもらって以来だからかなり久しぶりだった。愛想の良い女将が冬紀の顔を見るなり「やっと来てくれたのね」と微笑んだ。

 「酒はいつもの。つまみは腹が膨れない程度に適当に」

 冬紀はそう注文した。ここでお腹いっぱいにならないようにする。何せ家に帰れば、春彦が夕飯を作ってくれているのだ。

 「まるで新婚ね」

 たっぷりと不機嫌を滲ませながら舞子が言った。

 「ねぇさん、私はちゃんと食べたいから、フルコースにして」

 舞子は女将のことを「ねぇさん」と呼ぶ。フルコースとは、女将が作る夕飯用のメニューのことで、いわゆる日替わり定食のようなものだ。不機嫌を隠しもしない振る舞いはまるで母親に甘える女子高生のようだが、女将もそれをニコニコと受け取っているので満更でもないのだろう。

 「新しいかわい子ちゃんだの、新婚みたいだの、何なんだ」

冬紀はおしぼりで手を拭きながら率直な疑問を口にした。

 「やだ、あんた、私が何も知らないとでも思って?最近吉野に新しい女が出来たって署内持ちきりじゃないの」

 そう言われて、冬紀は愕然とした。全く身に覚えのない噂、と言いたいところだが、思い当たるのはやはり春彦のことだ。冬紀は女将が出したよく冷えたビールを一口煽り、舞子に春彦のことを話した。

 家事代行を頼んだら、思いの外良かったこと。上司の横槍もあり、思ったより親しくなったこと。事件に巻き込まれた家政夫を居候させることになったこと。舞子からの鋭い合いの手もあり、話し終える頃には2人の飲んだジョッキがカウンターから溢れそうになった。

 一通り聞いた舞子はなるほどと何やら納得して、誰それにも教えてやらないととひとりごちている。噂に一人歩きされるのは嫌だが、家政夫とのアレコレを知られるのも嫌だ。冬紀はあまり言いふらすなよ、と念を押したが、舞子のことだ。明日には署内の噂話も落ち着くか、また別の噂話が飛び交うだろう。冬紀は諦めてがんもどきを頬張った。

 「で?こんな話をしたくてここに呼び出したわけじゃないんだろ」

 今度は冬紀が水を向ける。とたん舞子の表情が曇った。本当に話して良いかどうか、まだ迷っている顔だ。冬紀は黙って、舞子が喋り出すのを待つことにした。そんなに長くはない逡巡の後、舞子は徐に口を開いた。

 「ねぇ、仁さん、最近どう?」

 「……浅野さん?」

 意外な名前が出てきたと思った。彼女の言う「どう」の中に一体どんな意味が入っているのか計りかねて、冬紀は困惑した。相変わらずダラダラと仕事をしているように見えて、サクッと書類仕事は片付けているし、体調も悪そうには見えない。この間はボソッと子供の反抗期が辛いと愚痴っていたが、高校生にもなる息子なら仕方ないだろうと思う。

 特段変わった様子はない。と言うのが冬紀の答えだった。舞子には違って見えているのか、冬紀の答えにあまり納得しているようには見えない。

 「私の杞憂ならなら良いんだけど」

 嫌に慎重に前置きして、舞子が語り出した。

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